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2018-06

田端豊香園 カッピー化粧品・前編 - 2018.06.10 Sun

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これまた、物凄いご無沙汰してしまいました!
この間、ブログのビン業界(?)ではニューフェイスの方がどんどんと
増えていらっしゃるようで、完全な浦島太郎状態です。

骨董市でお会いする方々に「ブログ更新してないね!?」という反応を頂いて、
「いやいや、このままじゃイカン!」と思わせられました。
楽しみにしてくれている人がいるのは有り難いことです。
更新する意欲は満々だったのですが、じっくり調べたいこともあり、
しばらく休止のような状態になってしまいました。
死んだと思ったらいつのまにか復活している、
そんなブログですが、これからも宜しくお願いします。

さて、冒頭のお写真で既にお分かりかと思いますが、
今回取り上げるのは田端豊香園のカッピー化粧品です!
(正確には「国産カッピー化粧品」。この「国産」には大きな意味があります)

田端豊香園は多くのサイトで「詳細不明」と説明されていますが、
商報では広告出しまくり、記事出しまくりの露出度高めなメーカーなので、
何とかなりそう?と軽い気持ちで調査を開始しました。
それが、こんなに長い時間が掛かってしまうとは…!
しかもやっぱり分からないことが多いです、毎度の事ながら。
そして毎度の事ながら長文となりますが、興味のある方はお付き合いください。
今回はボリュームがあるので、当ブログ初となる前編・後編の2本立てです。
前編では会社の創業から、代表作である香水『黒水仙』の発売まで、
後編では『黒水仙』発売後から会社の終焉と『カッピー』のその後を書く予定です。
(以下、田端豊香園は豊香園、田端豊吉氏は田端氏と表記します)

ここからは豊香園の歴史について書いていこうと思うのですが……
まず、豊香園の創業年がよく分かりません!
創業年について言及しているサイト、商報の記事や広告が複数あるのですが、
内容が食い違っているのです。

渋沢社史データベース→1907年
NCM→1908年
1954年6月の商報記事→1908年
1956年5月の商報記事→創業50年の式典が開催されているので創業は1906年?
1970年10月の商報記事→1907年

1970年の記事では、正式な企業情報として1907年と記載されていますから、
とりあえず、1907年創業説を当ブログでは推したいと思います!

豊香園の創業者である田端氏は、1879年に和歌山県でお生まれになりました(推定)。
ご本人の回想では、年少期に志を持って横浜へ渡り苦学力行した、とあります。
田端氏にとっての「年少」ってどれくらいだろう…10代はじめ頃でしょうか。
1960年6月の商報記事では、「業界へ入ってから今年で58年」とありますので、
化粧品業界で働き始めたのは1902年、田端氏が23歳の時と推定できます。
1907年に創業するまでの5年間の動向は殆ど不明ですが、
1906年にドイツとフランス、1907年にアメリカへ渡り香水作りの技術を学んでいます。
香水作りを学んだ動機ですが、欧州で買った香水が素晴らしかったので、
「よし、私も香水を作ってみよう!」と決心したらしいです。
これだけ聞くと、随分ノリが軽いように感じますが(笑)当時は日本から欧米まで
船旅で一ヶ月以上は掛かりましたし、旅費も相当なものでした。
そこまでして香水を学びに行くのですから、やはり並々ならぬ決意があったのでしょう。
アメリカから帰国後に田端氏は豊香園を創業、最初の製品を横浜で発売しました。
それからカッピー化粧品の発売まで、豊香園の名前は商報でも全く見受けられません。
この空白の25年間の商売については、田端氏が以下のように回想しています。

「創業早々フケ取り香水を作ったとき、薄荷を使っていたところ、
もっと刺激が強いのが欲しいと言われ、唐辛子を入れてウケたこともあった」

「慶応大学横の坂道を、自分の作った商品をリヤカーに山と積んで引いて登ったものだが、
坂が長くハァハァ息が切れて苦しかったものだった」

「当時は私も輸入をやっていた。輸入のものはワトキンソンのホワイトローズ、
ドイツのシンメルのものなど安香水が売れていた」

「私の香水が、一流の舶来品専門店に“外国品よりも良い”と言われた時はうれしかった。
資生堂へ持って行ってもほめられたことを覚えている」

オリジナル製品の販売だけでなく、輸入品の販売もやっていたというのは意外でした。
当時は特に大きな宣伝をすることもなく、地道に売り歩いていたようです。
カッピーというブランドはまだ無いものの、創業当時から香水は好評だったのですね。
あの資生堂へも持ち込んでいたとは、そして褒められていたとは、驚きました!
唐辛子入りのフケ取り香水は一体どんな使用感だったのか気になります…!

1934年1月の広告では、『国産カッピー化粧料・クール化粧品本舗 田端豊香園』
と記載があり、豊香園のブランドは『カッピー』だけではなかった事が分かります。
また、1935年7月の広告では『レイナ』というブランドがある事も分かります。
創業してから『カッピー』を発売するまでに、25年掛かっているわけですから、
その間もオリジナルのブランドがあったのだと考えても不思議はありませんよね。
豊香園といえば『カッピー』しかないようなイメージですが、『クール』や
『レイナ』というブランドが、豊香園の25年間を支えていたのかもしれませんね。

商売を続けて25年が経った後、1932年5月に『国産カッピー化粧品』が発売しました。
発売当時、田端氏は既に53歳(推定)!もう少しお若いイメージだったので意外です。

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これまでと打って変わって、華やかな宣伝広告を出し、業界の注目を集めました。
「殊に素晴らしき芳香の魅惑、三二年の高踏的作品!!
 けだしニュータイプの出現は近代化粧品界の豪華を誇り、王座の冠を全うするもので有ります」
物凄い自画自賛っぷりで、むしろ清々しいです!
日本で「ニュータイプ」って言葉を使ったのはガンダムが最初かと思ってましたよ。

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発売当時の化粧品一覧。
レパートリーは充実していて、香水は勿論のこと、ベーラム、クリーム、粉白粉など、
その数は22種類になります。
田端氏は発売当時の事を1960年6月の商報で以下のように回想しています。

「高級品は滅多に売れず、売れても外国品崇拝思想が強くて国産品の入り込む余地はなかった。
私は、この外国崇拝の迷信を打破しようと考え、自社の製品には必ず国産カッピーと、
『国産』の二文字をつけたものである」

田端氏がこの新製品に込めた思い入れが分かります。

ところで、商報を読んでいて、1つ気になる広告を見つけました。
豊香園の国産カッピー化粧品とは別に、カッピーという製品の広告があるのです!
しかも、そのカッピーは豊香園が国産カッピー化粧品を発表する以前から、
商報に広告を出しているのでした。

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広告には「仏蘭西 巴里 セラミー會社製」とあります。
このセラミーについては、日本のサイトでは殆ど情報が得られなかったので、
語学堪能な友人Aに調べて頂きました。
(私のダレトクな趣味に理解を示してくれる数少ない友人です。ありがとう!)
その友人Aが見つけた、フランス版wikiのウビガンのページの記述によれば、
セラミーは1921年8月にウビガンの子会社としてアメリカで設立し、
1965年頃まで存在していたようです。
親会社はフランスの老舗香水メーカーのウビガンではありますが、セラミー自体は
紛れもなくアメリカで誕生したアメリカの会社なワケですね。

それでは何故、私の見た広告には「仏蘭西 巴里 セラミー會社製」とあったのか?

これについては、海外サイト(Collecting Vintage Compacts)で知ることができます。
当時のアメリカではフランス製の香水が圧倒的な人気を誇り、
アメリカ国内のメーカーはシェアのほとんどをフランスのメーカーに奪われていました。
これを良く思わないアメリカはフランスからの輸入香水に高い関税をかけたのです。
そうして、輸出によるビジネスが事実上不可能となったフランスの香水メーカーは、
アメリカに子会社を立ち上げ、オリジナルの製品を製造、販売しました。
しかしながら、フランス製の香水が人気であることには変わりないので、
フランス製を装った製品が多く出回ることになるわけですね。
セラミーのカッピー(以下Cappiと表記)も、そうした製品の一つであったようです。
アメリカ製のCappiのパッケージには「PARIS FRANCE」とはっきり書いてあります。

Cappiはセラミー会社設立から4ヶ月後、1921年12月にお披露目となりました。
他に類のない名前で、発音しやすく覚えやすいのでCappiと名付けられたそうです。
どういう意味の言葉なのか、長年、気になっていたんだけども、
特に意味は無かったのか…と思うと、少し複雑な気持ちになります(笑)

日本粧業会では1915年から1925年に発行された商報は未公開であり、
いつ頃からCappiが輸入販売されていたか、はっきりとは分かりません。
しかし1926年の商報で既に広告が見受けられるので(関税変更による値上げの記事)、
1921年から1925年の間には輸入販売が始まっていたと考えられます。

さて、ここまで書けば私が何を言いたいかは分かるでしょう。
つまり豊香園のカッピーには、セラミーのCappiという元ネタがあったということ!
商品名はそのままで、デザインもとてもよく似ています。
豊香園がセラミーから、カッピーの製造販売権を譲り受けたのか?とも考えましたが、
国産カッピー化粧品の発売当時の広告にはセラミーのセの字も出てきませんし、
豊香園がカッピーを発売後も、セラミーのcappiの広告は出続けています。
カッピーとcappiの広告が同じ紙面に載っているのは、なかなかシュールな光景です。
パクリに厳しい現代では批判は免れないと思いますが(例:東京五輪ロゴ盗作疑惑)、
当時の業界の反応は?というと、批判どころか一様に歓迎ムード!

なぜ、国産カッピー化粧品が何の問題もなく、業界に受け入れられたのか。
単純に、当時のモラルやルールが現代とは異なるからだとも言えますが、
その他の理由として、国産化粧品の国内における立ち位置も関係するのではと思います。
先述の田端氏の回想にもありますが、当時は国産よりも外国製化粧品が高品質とされ、
国内の化粧品メーカーは悔しい思いをしていました。
外国製に勝る国産化粧品を作ることが業界の一つの目標であり、悲願だったのです。
豊香園は、既に知られているCappiと殆ど同じものを遜色なく作ってみせることで、
「ビンもラベルも中身も、国産でこれだけ良い物が作れるんだぞ!」と
国産品の実力を消費者にアピールしたかったのではないでしょうか。
外国製化粧品を真似るメリットは、お客が外国製と誤解して買うところにありますが、
豊香園はハッキリ「国産」と銘打っているので、そういう魂胆はなかったと思います。
「国産」であると宣伝しても売れるだけの品質を備えている自信があったのでしょう。
つまり豊香園は、外国製化粧品に対して堂々とケンカを売ったのです。
一方、ネタ元であるCappiはアメリカ製であることを隠して売っています。
(当のセラミーは、フランス風に作っただけでアメリカ製であることは隠していない…
と主張していますが、製品に「PARIS FRANCE」と記載するのは、ちょっとなぁ)
パクりか否かで考えれば、「国産カッピー化粧品」は確かにパクリと言えるんだけども、
製品に懸けた心意気で考えると、セラミーよりも断然かっこいいんですよね。

カッピー化粧品が発表された当時は、大恐慌、満州事変などを経て
日本と連合国との間に対立が深まり、国産品愛用の気運が高まっていました。
商報を読んでいても、国産品愛用を謳う広告が散見されます。
こうした中、日本の業界で初めて(?)「国産」をウリにしたカッピー化粧品は、
時代の空気を読んでいたとも言えるかもしれません。

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実は、冒頭の写真の右から2番目のビンは豊香園ではなく、セラミーのcappiです。
cappiの香水瓶は大きい物と小さい物、2種類を持っています。
今回の記事を書こうと決めてから、家にある豊香園のカッピーをかき集めたのですが、
悲しい程バリエーションが乏しかったので、セラミーのcappiを紛れ込ませました。
「右から二番目は豊香園じゃないぞ!」と気付かれた方はアッパレです!
ここで、豊香園とセラミーのカッピーの見分け方を少し解説したいと思います。
まず、商品名の綴りですが豊香園が「CAppi」、セラミーが「Cappi」です。
それからセラミーは「CHERAMY」と社名が明記してあります。(これは当たり前か!)
「PARIS FRANCE」と明記してあるのも、セラミーの特徴です。理由は前述の通りです。
両者共にトレードマークがあるのですが、これは全然デザインが違います。
豊香園は富士山のようなもの、セラミーは香水ビンと鏡台がイメージされたものです。
以上を踏まえて、豊香園とセラミーの粉白粉を見比べてみましょう。

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違いが分かりますでしょうか? 似てるけどビミョーに違いますよね。

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左は豊香園の、右はセラミーのトレードマークです。
セラミーは目立つ場所にこのマークのステッカーが貼られていますが、
豊香園はこのマーク、あんまり積極的に使ってないんですよね。
新聞広告や粉白粉の裏側などには表記されているんですけど……。

豊香園は、トレードマークや広告では綴りが「Cappi」だったりして、
綴りに対して特別なこだわりが無く、むしろ無頓着なのが伝わってきます(笑)
また、戦後には製品についても「Cappi」の綴りが増えていきます。
セラミーは第二次世界大戦を境に日本での存在感が消えて無くなるので、
わざわざ違いを出さなくても良くなったのかな?

話を豊香園のカッピーに戻しましょう!
カッピー化粧品発売後は旅行の当たる特売など、販促キャンペーンを頻繁に開催しました。
1932年9月の商報では、フランス汽船アトス号での夕食会の模様が記述されています。
その中で、カッピー化粧品の総代理店、鈴木福次郎商店の店主である鈴木福次郎氏は、
カッピーは1922年にラテン語を参考に命名、その後事情があって発売を控えていたが、
田端氏のおかげでようやく完成できた、と説明しています。
カッピー化粧品が鈴木氏の発案で誕生したオリジナルであるかのような説明ですが、
セラミーのCappiが発売されたのは1921年12月ですから、1922年に着想を得たというのは、
要するに、まぁ、そういうことでしょうね…お察しください(笑)
カッピー化粧品については、田端氏ご自身の発想によるものかと思っておりましたが、
この記事を読む限りでは鈴木福次郎氏がその誕生に一役買っていたようです。
鈴木氏は化粧品との縁の深い人物で、ナルビー化粧品という自社ブランドも持っています。

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1933年1月には、田端氏の顔写真付きの年頭挨拶が商報の紙面に初めて登場します!
年頭の挨拶は、それなりに知名度の高い業界人が寄稿している事が多いので、
この時点での、田端氏の業界での存在感を伺い知ることができます。
ちょっと残念なのは、この記事では「時局」に関する発言が大部分を占め、
自身の近況については殆ど語られていないこと!
非常時の心構えを持ち、業界のため国のために尽くす……と熱弁しています。

国産カッピー化粧品の発売後、新作の発表はしばらくありませんが、
1934年2月『オリーブポマード』の発売を皮切りに、同年12月に『カッピー頬紅』、
1935年2月には『カッピー口紅』『カッピー艶出し香油』の発売が続きます。
更に1935年8月には、田端氏が販路拡大のため朝鮮、中国、満州の視察を行っており、
当時の豊香園の勢いを感じられますね!
しかし、実際に大陸にまで進出したかどうかは不明です。
韓国語や中国語が表記された製品があれば、大陸進出の裏付けになると思いますが、
今のところ見た事無いんですよね〜

1936年8月、豊香園は東京ボーネット会を設立し、制度品システムを導入します。
これにより、小売店は豊香園と契約してボーネット会に入会すれば、
卸売り店を介さずに製品を直接仕入れる事ができるようになりました。
豊香園は他店に製品を卸さないので、契約小売店はカッピーを独占販売できます。
その結果、契約小売店は安定した顧客と売り上げを確保することができ、
他店との価格競争が必要無くなるので定価で販売することが可能になるんですね。
当時の業界は、小売店が安い価格で製品を売り捌く「乱売」に頭を悩ませていました。
豊香園も1935年6月の記事で、乱売によって被った不利益を訴えています。
そうした経緯もあって、制度品システムの導入を決意したのでしょう。
しかし、制度品システムは陳列棚や販促物などを企業側で用意しなければならず、
その負担は決して小さくありません。
制度品システムを導入できるということは、それなりに体力(=売り上げ)のある
企業であることの証でもあります。

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これがボーネット会設立当時の広告です。
ところで、冒頭の写真にも写っているバニシングクリームですが、
この広告のクリームのビンと、形が一致しているように感じます。
バニシングクリーム自体はカッピー発売当初からの製品ですが、
同じ形のビンの写真はこれ以外に見つかりませんでした。
もしかすると、私の持っているバニシングクリームは制度品仕様の物かもしれません。

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ビンも蓋も丸っこく、可愛いフォルムです。

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蓋にも底にもしっかりと「CAppi」のエンボスがあります。

1938年4月、香水『フランス麝香』が発売となります。
採算は取れないけど苦心の末に完成した最高の芸術品なので、発表しないのは忍びない。
よってあらゆるコストを軽減し、数量も限定することで販売に漕ぎ着けました……
というようなことを超長文で説明しています(笑)

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豪華にして絢爛たり、今こそ名付けてフランス麝香!!
感激の名香!!不朽の名香!!この気持ちを讃えて香りの女王!!

……この自画自賛で尊大な感じ、嫌いじゃないです(笑)
「香水は芸術である」がモットーの田端氏、香水に懸ける情熱を感じますね。
ポマード、頬紅などの新発売広告と比べると力の入り具合が何だか違います。

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私はフランス麝香を2つ持っていますが、残念ながらこの当時の物ではありません。
豊香園の住所表記などから、右は1959年以降、左は1948年以降の物と推測できます。
1938年当時の広告と見比べてみると、それほど大きな違いは無さそうです。
ラベルはフランス国旗を意識しているのかな?トリコロールカラーですね。

そうそう、カッピーの香水といえば、忘れてはならないのが『カッピー香水』。
国産カッピー化粧品発売時に、発売されているはずなのですが、存在感がかなり薄いです。
広告に載っているのは粉白粉や水白粉、クリームなどの写真ばかりで、
香水が目立って広告され始めるのは、発売から4年が経過した1936年頃からになります。

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これは1936年の広告です。ラベルの形が四角いですね。
「初夏の店頭の寵児!近代的趣味の上に立って高雅馥郁たる国産カッピー香水
 この品こそ香水界の最高位 香水通の憧憬の的 国産の誇り 断然外製品を圧倒」
外国製に対するライバル心がバシバシ伝わってくる文章です。

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こちらは1939年の広告。ラベルの形は楕円形です。
「不朽の名香カッピー香水は誰云うとなく香りの女王と称す
 今や本邦香水界の王座を築き 其名声海外に及ぶ 切に御店頭に御愛賣の程願上ます」
名声が海外に及んでるっていうのは、多分ウソです(笑)

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これは私が持っているカッピー香水。
ラベルは丸く、平たいビンに、黒いベークライト製のキャップが付いています。
エンボスはビンにも蓋にもありません。
ラベルの形が年代特定の手掛かりになるのでは?と期待したのですが、
どちらのラベルも年代に関係なく広告に登場するので、参考にはなりませんでした。
ただし、このデザインのカッピー香水は戦後の資料では確認されていないので、
少なくとも戦前の物であるということは間違い無さそうです。

豊香園の経営は順調で、1940年には牛込区市ヶ谷谷町51番地に新社屋と工場が完成しました。
(現在でいうと新宿区住吉町あたり?)
当時の記事によれば、典雅な社屋の裏側には最新の設備を備えた工場が数棟も立ち並び、
豊香園の更なる発展を思わせる、大層立派な規模のものだったそうです。
7月の広告には新社屋、工場の写真(イラスト?)も掲載されています。

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この広告の掲載以降、どうしたわけかカッピー化粧品の広告が激減します。
新社屋兼工場の建設費用、制度品システム導入のための費用など考えると、
広告費をそっちにまわしたのか!?なんて勝手な想像をしてしまいます(笑)
更に1941年以降から終戦までの資料は年鑑くらいしか公表されていないため、
この間の豊香園の動向については、ほとんど不明なのです。
1941年、1942年の年鑑では広告が確認できるのですが、1943年以降は確認できません。

再び豊香園の名前を確認できるのは、終戦後の商報の「本舗の現況」コーナーです。
それによれば豊香園は戦時中、浦和市に浦和工業所を設立し軍需指定を受けて
機械工業を経営していたとのこと。
おそらく広告の掲載がない1943年頃から機械工業を始めていたのではないでしょうか。
戦時中、贅沢品とされた化粧品への政府や軍の風当たりは強く、配給も少なかったため、
多くの化粧品会社は生き残りを賭けて、軍需産業に従事しました。
豊香園の浦和工業所の設立も、生き残るための選択であったのでしょう。
機械工業を始めてからも化粧品の製造を続けていたかどうかが気になるところですが、
牛込区の社屋兼工場は残念ながら空襲により焼けてしまったらしく(時期は不明)、
その後は機械工業のみを生業にしていたものと考えられます。

戦後は、戦禍を免れた浦和工業所でテックス(建築資材)の製造をしながら、
板橋区東大泉町366でクリーム、ポマード、香水など、化粧品の製造を再開します。
1947年には新工場を建設し、戦前にも取り扱いのあった粉白粉が復活しました。
しかし、戦中の社屋兼工場の焼失はやはり大きな痛手となったようで、
以前のような活気ある広告が見られるようになるのは1949年以降になってからです。
ちなみに、カッピーの前に必ず表記されていた「国産」の二文字が戦後には消滅します。
戦前は、香水だけでなく化粧品全般を製造していた豊香園ですが、
戦後は特に香水に注力し、1949年5月の記事では16種類もの香水が紹介されています。
1945年から1948年までにエメロード、カッピーオリガン、ベニスの夜、パリーの花、
ホワイトローズ、ヘリオトロープ、シプレー、ローズ、伽羅、クレマチスの10種を発売、
更に1949年5月までにフランス麝香、リラ、フローレンス、ローズプリンス、ウィステリア、
オノクレアの6種類を発売しています。
同年の9月には整髪料『液体ブリアンチン』の発売も確認できます。

1950年には、戦時中の工場焼失により事実上解散していたボーネット会が再結成され、
関西の契約小売店に製品を卸すための販売会社、浪花豊香園を神戸で設立するなど、
制度品システムの復活、再運営に向けた積極的な展開が見られるようになります。
同年7月には香水『パリの花』と、純正ハチ蜜を主材とした『ハチ蜜コロン』を発売。
同年9月には、戦前から存在する豊香園の別ブランド、レイナから『バニシングクリーム』と
『コールドクリーム』、そして『ハチ蜜入り栄養クリーム』が発売されます。
時期は分かりませんが、豊香園は戦前にも『純精蜂蜜クリーム』を販売していたので、
それのリバイバルと言えるかもしれません。
1951年3月には新装の『カッピー粉白粉』と、香水『ムゲット』『ガーデニヤ』が発売。
この香水2種の発売記事では、豊香園の香水は既に30余種類ある、と記述されています。
1949年には16種類だったものが、2年余りで倍に増えるとは驚きですね。
田端氏の回想によれば、この時期の経営が一番苦しかったらしく、
「経営は極度に行き詰まり、死に物狂いで孤軍奮闘していた」と語っています。

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そんな苦しい経営状態の中、起死回生のヒット作となる香水『黒水仙』が発売となります。
1951年4月の発売当時、サイズ違いで500円のものと300円のものがあったようです。

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左が500円、右が300円です。
左は住所が「豊玉」なので1959年以降、右は「東大泉」なので1959年以前と推測できます。
年代に多少の開きがありますが、デザインは全く同じですね。

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蓋にはとても小さく「CAppi」のエンボス!

当時は流行った映画やドラマの名称をそのまま香水に付けることが少なくなく、
この香水についても同年3月に公開したイギリス映画「黒水仙」から着想を得たようです。
映画の人気の後押しもあってか、カッピーの黒水仙は発売直後から評判を呼びました。
同年8月には富山、金沢、名古屋のデパートで開催の人気投票で第1位を獲得しています。
黒水仙の人気は一時に留まらず、定番香水として長く愛されることとなりました。
オークションや骨董市でも、黒水仙は比較的入手しやすい香水と言えますが、
人気商品のため流通量が多かったことがその要因の1つであると推測されます。
ちなみに、黒水仙といえば、この特徴的なボトルですが、
このボトルデザインが使用されたのは黒水仙が初めてではなく、
ひと月前に発売されている香水『ムゲット』『ガーデニヤ』で既に使用されています。

1951年9月には、『カッピー栄養クリーム』が発売。
1950年に発売された蜂蜜入り栄養クリームとは別物のようです。
当時は栄養クリームが流行していたので、特に力を入れていたのでしょうね。
同年11月には、田端氏の六男である哲郎氏(当時31歳)の結婚が記事になっています。
哲郎氏は、若くして豊香園の副社長を任され、その経営に関わってきた人物です。
この後も副社長として幾度か登場しますが、後に独立します。
同年12月には、『ヘヤーオイル黒水仙』、『ミルキークリーム』、『スキンクリーム』、
『コールドティッシュクリーム』が発売。(ティッシュクリームってなんなんだ…!)
ここで新たに3種類のクリームが発売され、豊香園のクリームは合計で5種類となります。

1952年2月には、香水『パンドラ』を発売。
この香水は黒水仙に次ぐヒット作となっています。
同年6月には高級香水『蘭奢香』を発売。この香水は3000円という高価格!
黒水仙が300円、500円という価格ですから、なかなかの高級品であることが分かります。
同年10月には『コールドティッシュクリーム』をリニューアル、
11月にも蜂蜜入り栄養クリームを『ハニークリーム』としてリニューアルしています。

1953年は、香水需要の高まりを受けて、高級香水を中心に新製品を展開。
3月には、高級香水『木犀』、『鈴蘭』、『ホワイトローズ』を発売しています。
そのほか、薫陸香、桃金嬢、ネーメ・ク・モア、黄水仙、麝香撫子、アモア、素馨を含めた
合計10種、高級路線の香水を「今年の香水」として売り出しています。
庶民の生活レベルが上がってきたことで、高級香水の売れ行きは順調だったようです。
7月の広告では「サンクロ」と称して黒水仙香水、黒水仙オリーブ香油、黒水仙ローション、
合計3つの製品の宣伝が見られ、黒水仙の人気が継続していることが伺えます。

1954年2月には、『紅孔雀』という名称の香水と香油を発売。
この頃、田端氏は九州へ出張中の船旅で、鳥瞰図絵師として著名な画家、
吉田初三郎氏と偶然、同じ船室になっています。
その時に田端氏から聞かされた香水に対する情熱に感銘を受けた吉田氏は、
徳富蘇峰氏を引き合いに出して激励、直筆の書『千寿萬香』を田端氏に贈っています。

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この広告の右上に載っているのが、吉田氏直筆の書のようです。

田端氏は吉田氏のこの激励にいたく感激して、
「日本から外国の香水を追放できるまで、命に代えても頑張るぞ!」
と決意を新たにしたそうです。
この時、田端氏は御年76歳!まだまだお元気ですね。

それから2ヶ月後の4月、「黒水仙問題」が3年の月日を経て解決に至ります。
「黒水仙問題」とは、黒水仙の商標権を巡る一連の騒動です。
黒水仙の名称はヘリオトロープ、シプレー等と同様に固有名称ではなく
一般名称と考えられていた関係上、商標として出願するメーカーはありませんでした。
その後、登録可能と考えた横田氏(詳細不明)が1951年6月に商標を出願します。
これよりやや遅れて、豊香園が商標を出願しますが、先願制度を尊重する特許庁は、
1952年7月に横田氏出願の黒水仙を公告制度にならって公告しました。
公告制度とは特許庁の審査官が権利化を認めた出願について、公報によって公衆に知らせ、
特許異議申立を待つというものです。
当時は豊香園の他にも「黒水仙」の名称を使用している化粧品が多々ありましたから、
公告に気付いた化粧品会社の人々が緊急集会を開きます。
話し合いでは、今後も一般名称として取り扱うべきだという意見もあったようですが、
その旨を特許庁に申し立てるにはもう時間がないということ、
また集会を開いた時点で既に田端氏から異議申し立てが行われていたことから、
名称使用を同業他社にも認めることを前提に、対応の一切が田端氏に一任されます。
これを受けて田端氏は商標権獲得のために奔走しますが、
「横田氏出願前3ヶ月位の時日にては著名ならず」として審査官に申し立てを却下されました。
これにより、商標権獲得が決定的となった横田氏は「黒水仙商標につき警告」
という広告を某業界紙に掲載、名称を使用している化粧品会社の人々は衝撃を受けます。
そして1954年2月、横田氏の出願登録が確定されました。
業界のため後に引けない田端氏は、確定とともに無効審判申請を行います。
一方、この案件の円満解決を望むルリガン本舗社長の杉山氏は、横田氏と同じ人物を
顧問弁護士としているコゼット本舗社長の中原氏と、共同で解決への糸口を模索します。
最終的には、2人から協力を依頼された東京化粧品工業会の馬場専務理事が横田氏から
商標権を買い取ることで話しがまとまりました。
工業会は「黒水仙委員会」を設置、会員に黒水仙の使用を許可することとなります。

3月に商標権譲渡の契約が成立、4月に譲渡完了ですから、2月に商標権を獲得した横田氏が、
それを保持していたのは、約2か月足らずということになります。
そもそも横田氏にとって本当に必要な商標登録だったのかどうか、疑わしいところです。
お金で解決してしまった点から考えても、いわゆる「商標ビジネス」だったのではないか?
という疑いが晴れません!この辺りは私個人の勝手な憶測です。

委員会には豊香園を筆頭に、ヒメ椿、ラモナー、サフラン、月の友、月美人、ミベヤ、
アルマン、バレー、コーセー、三越、ルーブ、ルリガン、コゼットなどが名を連ねました。
委員長には田端氏が就任、この後10年以上にわたり商標管理に努めることとなります。

『黒水仙』という名称を巡って、田端氏もかなり苦労したのですね。
ここで上手くいっていなければ、一番の売れ筋香水を失ってしまうところでした。
化粧品、特に香水はイメージを売る製品ですから、名称変更となれば、
大きな痛手になっていただろうと思います。

さて、ここで前編は終了です。
なるべく短く分かりやすくまとめたつもりですが、いかがだったでしょうか?
っていうかここまで読んでくれた人がどれくらいいるのかどうか(笑)

とりあえず、まだまだ先は長いです。
後編へ続く!

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リバストン化学 香水ビン色々 - 2017.03.12 Sun

riverstone-secound1.jpg

並べて楽しい、眺めて楽しい!
リバストン化学の香水ビン色々です。

昔に取り上げた事のあるリバストン化学の香水ビンですが(前回記事はこちら→
あれからレパートリーが増えたことに加え、今回はリバストン化学の石川惠一さんに
少しだけお話を伺うことができましたので、記事にしてまとめることにしました。
私の不躾なお願いにも快く応じて下さった石川さんには、改めて御礼申し上げます。

さて、王冠型の香水ビンといえば?
欧米では「プリンス・マチャベリ」ですが、日本では「リバストン化学」でしょう。
(私が勝手に決めました)
カラフルで楽しい形の多いミニ香水は後々ご紹介するとして、
まずは知っている方も多いと思われる王冠型の香水ビンをご紹介したいと思います。

riverstone-secound2.jpg

透明なガラスに金彩の施されたデザイン!ガラスも厚くて高級感があり、とても綺麗です。
この王冠型の香水ビンは見掛けることは多いものの、基本的に栓が無いんですよね。
「元々栓の無い香水ビンだったのでは?」なんて思ってしまうくらいでしたが、
この度は目出度く、栓のあるビンを手にすることができました。

riverstone-secound3.jpg

ガラス栓は小さいですが、丁寧な十字の飾りが施されています。
全長は約2.3cmです。
小さく軽いので、ポロッと抜けてしまっても気付かないかもしれません。
栓が無いビンが多いのはそのせいでしょうか!?

riverstone-secound4.jpg

底を見てみましょう。
エンボスは無く、ツルッとしています。

riverstone-secound5.jpg

ちなみに、栓が無いビンはなんと3つにまで増えてしまいました。
見つけるとついつい連れ帰ってしまう魅力があります。

リバストン化学の石川さんによると、これは約70年前に作られた物だそうです。
70年前というと、戦後しばらくの頃でしょうか。
石川さんは二代目で、これは先代の時代の物の為、詳細は不明とのことでした。
現在でも石川さんと交流のある当時のガラス瓶製造業者の方によれば、
このビンについて経緯は覚えていないものの、作ったことは確かだそうです。

ところで、この香水ビンは海外製と勘違いされてしまうことが多いビンです。
特に前述したプリンス・マチャベリと勘違いされる事が多いようなので、
需要があるか分かりませんが、見分ける際のポイントを適当にまとめてみました!

riverstone-secound12.jpg

左がリバストン香水、右がプリンス・マチャベリです。 ※画像は海外サイトより引用

着彩の有無/リバストンには金彩部分に鋲のような丸い装飾があり、ペイントが施されています。
      マチャベリにも同じように装飾がありますが、ペイントはありません。

十字の有無/リバストンはキャップだけでなく、本体部分にも十字の飾りがあります。
      マチャベリにはキャップ以外の場所に十字はありません。

ガラスの色/リバストンは透明と赤のみです。
      マチャベリは透明と赤に加え、グリーンやブルーなどのバリエーションがあります。
        
riverstone-secound6.jpg

続いては、何とも可愛いミニ香水ビン!
カラフルで、形も面白いものばかりです。
全長はスクリューキャップも含めて3.5〜4.5cmほど。
キャップには十字の飾りの付いたものと、クローバー型の飾りの付いたものがあります。
クローバー型のキャップにはチェーンが付いていた?と思われるリングが残されています。
おそらくキーホルダーとして販売されていたのではないでしょうか。

riverstone-secound7.jpg

私の持っている物を並べてみました。
違いがペイントの有無だけの物は省いています。

riverstone-secound11.jpg

ペイントの有無とは、こういう事です。
左は手塗りと思われるペイントが施されたもの、右はエンボスのみです。
ちょっと分かりにくいかも?
石川さんから頂いたリストによれば、ペイントの有無も含めて40種類あるようです。
全部集めるのは大変そうですね!

riverstone-secound10.jpg

このシリーズには基本的にラベルは付いておりませんが、底にはラベルがあります。
「輸入原料 リバストン香水 東京墨田 菊川1−6−5 リバストン化学 石川○一」
○部分は潰れて読めませんが、惠一さんのお名前でしょうか?
それとも先代のお名前?

この香水ビンについても、石川さんが当時のガラス瓶製造業者の方にお伺いしたところ、
「ハリスに依頼されて作ったもの」とのことでした。
ハリスとは、カネボウハリス株式会社のことと思われます。

その前身であるハリス株式会社は、チューインガムで有名な菓子メーカーの大手でした。
鐘紡百年史によると、戦後は本業の繊維産業に比べ相場変動の少ない化粧品、薬品、
食品分野への事業拡大を決定、ハリスの合併はその足掛かりとなったとあります。
合併以前からハリスにはチョコレートやガムの原料を供給、不況の際には資金援助を行い、
建て直しの為の人的資材も投入するなど、経営には深く関わっていたようです。
カネボウのこうしたバックアップもあって、ハリスは西日本市場を制圧し、
ロッテに並ぶ菓子メーカーと評されるまでに成長します。
更なる成長を目指してロッテの本拠地である東日本市場へ本格的な攻勢を掛けますが、
危機感を持ったロッテは大掛かりなキャンペーンを敢行、巧みな経営戦略によりハリスを
退けてしまいました。この頃から経営方針に対する見解の相違によりハリス経営陣は対立。
一部経営陣が独断でポップコーン事業に手を出して失敗するなど混乱が続きます。
この混乱を収束するため、ハリスの重役がカネボウに経営譲渡の相談を持ちかけます。
そして1964年4月、正式にカネボウに合併され、カネボウハリス株式会社が誕生しました。

「カネボウハリスガム」で画像検索すると当時のガムの広告を見ることができます。
その多くが景品付きで、景品はトランシーバーだったり、テープレコーダーだったり、
ハンカチだったり……と多種多様です。
前置きが長くなってしまいましたが、この景品の1つに「プチ香水」がありました。
つまり、リバストン化学で使用されていた香水ビンは、この景品と同一の物なのです!
1965年当時の広告を、とことこコロンさんがお持ちでしたので、画像を拝借いたしました。

riverstone-secound9.jpg

どうでしょうか?ラベルの有無やペイント、キャップの形に多少の差異があるものの、
同じ香水ビンであると考えてほぼ間違いないと思います。

リバストン化学とカネボウが、こうした形で繋がっていたという事は驚きでした!
記事の初めに紹介した王冠型の香水ビンも、カネボウの為に作られたものではないか?
という説がありますが、その可能性が高いような気がしてきました。
ちなみに、デザインはガラス瓶製造業者の方によるものだそうです。
石川さんから頂いた香水ビンのリストには広告に載っていないデザインもあり、
ハリスガムにビンを提供後もデザインを増やし続けたのでは?と推察できます。

久しぶりなのでコツコツ集めてきた香水ビンをまとめて見せようと思う。 - 2016.09.18 Sun



ご無沙汰しております!
最後に更新したのがいつなのかも記憶が曖昧です。
前記事を確認してみたところ、なんと更新は5月21日!
夏は一回も更新しなかったわけですね〜なんて酷いブログなんだろう(笑)
もうこのブログはこのまま死んでしまうのではないか…と思った方も多いでしょうが、
(自分でも思った)本日をもって、めでたく復活いたします!

この間、何にもしてなかったワケじゃないんです。
収集に励みつつ、びん博士のお手伝いをしたり、インスタグラムを更新したり、
ネット上でお付き合いしていた趣味のお友達と初めてお会いしたり、
次の記事に向けて調べものも進めていました。
しかしながら、次の記事に向けての調べものが思うように進まない中、
プライベートでも色々な問題の解決に追われることに……
人生に踏ん張りどころってあると思いますが、今がその時のひとつなんですかね。

ちょっと話が逸れました!本題に戻ります。
今調べているものは、記事にできる内容になるまでもう少しお待ち頂くとして、
今回は私がコツコツ集めている小さくて素朴な香水ビンを紹介したいと思います。
華やかなものばかりではありませんが、香水ビンの夢のあるデザインは
眺めていると幸せな気持ちにさせてくれますよ。



1つ目はこちら。全長6cmほどの可愛い香水ビンです。
ガラス栓の「ガラスの塊」感がとても良い!
メーカーは不明ですが、ラベルの西洋婦人の横顔の下には「Bijin」と書かれています。
そのまま「美人」という意味なのか?それとも外国の言葉なのか?分かりません。
首には「WHITE ROSE」と書かれたラベルが巻かれています。



こちらは全長8.5cm、とてもロマンチックなデザインです。
自分の持っている物の他にも何度か見掛けた事があるので、
それなりに流通しているようですが、詳細は分かりません。
ゴールドのラベルには「FREE FROM ALCOHOL」とあります。
そのまま「アルコール使ってません」という意味でしょうかね〜
ラベルの下部には「SUMITO MADE IN JAPAN」とあり、日本のものであることは
間違い無さそうですが……「スミト」ってなんだろう?



続いてはこちら。全長は約8cmです。
色褪せたリボンがとても良い感じ!しっかりと巻かれているのを見る限り、
未開封かな?と思いますが、ガラス栓には4箇所の溝があります。
ここにはガラス栓を固定するための糸(正式名称が分からん 笑)を
這わせていたと想像できますが、それが無いからやっぱり開封済み?
ところで、このラベルデザイン、何だかどこかで見た事あるなぁ〜と思ったら……
昔に取り上げたロジェ・ガレのフルール・ド・アムールにクリソツ(死語)でした。
その時の記事がこちら
ラベルには「KATCHO」とありますが、おそらく課長……
じゃなくて「花蝶」だと思われます。
明らかにフルール・ド・アムールを意識している香水なので、
同じ時期に販売されていたのではないでしょうか。



高級感ありますね〜!久邇(くに)香水です。
リボンや金糸の状態を見るに、それほど古いものではないと思います。
発売元の久邇香水本舗については語りたいことが多いのですが、
簡単に説明すると皇族の久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)が戦後の
皇籍離脱後(久邇を姓とし「久邇朝融」と名乗る)に興した異色の香水会社です。

ガラス栓にプリントされているのは、久邇宮家の御紋だそうです。
底のラベルには「製造元:久邇香水本舗」、「発売元:久邇コーポレーション」
とあり、発売元の住所は東京都新宿区となっています。
現在でも久邇香水は製造販売されていますが、そのHPを見ると発売元は
「久邇コーポレーション・ルリ」となっており、住所は福岡県でした。
ちなみに久邇朝融は皇族時代からトラブルメーカーで、破天荒な人物として有名です。
皇籍離脱後は香水の他にも様々な事業に手を出しますが悉く失敗。
失意のうちに亡くなっています。
そんな背景がありながら久邇香水が今日まで生き残っているというのは驚きです。



丸いガラス栓が可愛い!髙島屋?の香水ビンです。
ラベルを確認してみると赤い○の中に髙の字があることが分かります。
だから私はこれを単純に髙島屋のものと思っているのですが、真相はいかに?





可愛いというよりカッコイイ香水ビン。
ガラス栓がとても凝っています。モチーフはワシでしょうか?
日本のものではないような気がします。
ラベルの文字はうっすら「OSTA」と読めますが、検索しても意味は分からず。
情報募集中です。



ガラス栓の丸い部分が異常に大きい(笑)パピリオのパピリオ・ドオルです。
シンプルだけども思い切ったデザインは「らしさ」に溢れています。
パピリオの香水ビンはそれなりに流通しているものの、このタイプは見掛けません。
1970年代頃のものかな?調べるのはまた今度……



小さく可愛らしい香水ビンです。
首に巻かれているラベルには「ROSE VIOLET」とあります。
正面のラベルには帆船のイラストの下に大きくFとMを組み合わせたブランドロゴ?
があり、更にその下には小さく「THE FAMES PERFUMERY.CO」と書かれています。
ハッキリと会社名が載っているにも関わらず、検索しても何も分かりませんでした。
おそらく海外のものと思われます。



金扇香水という、めでたい感じの香水です。
ラベルには扇と鶴のイラストがあります。
金扇という商品名からして、金鶴香水を意識しているのは明らかだと思います。
ガラス栓はお花をイメージした形でしょうか?
どうせなら金扇に絡めた形にすれば良いのにとも思いますが、可愛いからまぁ良いか!
ラベルに変な落書きがあったのでフォトショで少し消してみました。
仕事だと頑張れるんだけど、これは途中で面倒くさくなって断念(笑)
中途半端に残っちゃってゴメンナサイ!



日の出香水とスワン香水です。
この2つ、全く関係の無い香水と思っていたのですが、並べて比べてみたら
日の出とスワン以外の部分のデザインはそっくり!(スワンは撫で肩なビンだけど)
下部の表記の「POUL LE Mouchol」も全く同じでした。
「日の出」と名の付くからには日本のものと思うのですが、詳細は分かりません。





今回、ご紹介するのはこちらで最後となります。
ラベルに赤い字で「Mikasa」と書かれているので、ミカサ香水でしょうか。
ガラス栓のデザインが如何にも日本的でとても気に入っています。
自立できないタイプです。おそらく持ち運び用でしょう。
香水ビンにおいて、ガラス栓のデザインってとっても重要だと思います。
これが普通の形をした普通のガラス栓だったら?
全く違った印象になることでしょうね。

矢野芳香園(と丹平商会?) ツバメ香水 - 2016.05.21 Sat



お久しぶりですー!
またまた、ご無沙汰してしまいました。
今年は更新頻度を上げるぞ!と意気込んでいたのに、駄目ですねー……
休日に一日引き籠れるぐらいの時間が取れないと記事がまとめられない私、
最近はなかなか、そんな時間が取れずにいました。
今回取り上げるツバメ香水の発売元である矢野芳香園は、コレクターの間で名前が
知られている割には謎が多いんですよね。
たっぷり時間を掛けたかいあって!?矢野芳香園については色々な新事実が浮上してきました。
その新事実とやらに興味のある方がどれだけいるのやら、分かりませんが(笑)、
最後までお付き合い頂けると嬉しいです。





THE・香水なデザイン!繊細で美しくて私はこういうの大好きです♪
全長は約6.5cmと、やや小振りなサイズ。
ツバメ香水なので、当然ながらツバメが描かれています。
ラベルには「parfum Goncentre」「ARONDE」「Poul le Mouchoir」とあります。
「Goncentre」は「Concentre」の事だと思いますが(この時代はスペルミスが多い)、
コンセントレは仏語で「濃縮」という意味で、現在でも香水にはよく使われる表現です。
謎なのは「ARONDE」と「Poul le Mouchoir」で、両方とも仏語だと思うのですが、
調べてみると「ARONDE」は仏人の人名としてアロンドと読む、という情報しかありません。
商品名はツバメ香水なのに、全然関係無い語を一番大きく表記するって、どうなの!?
それから「Poul le Mouchoir」ですが、直訳すると「ポールのハンカチ」という意味に……!!
ポールって誰やねん!フランスのハンカチ王子かよ!(古いネタですいません)
この時代の外国語表記はかなり適当だとは思っていましたが、これは酷いです(笑)
何かの暗喩なんじゃないかとも思いましたが違いますよね?仏語に詳しい方、ご教授ください。

訂正:「ARONDE」は古代フランス語で「ツバメ」を意味する語だと情報提供を頂きました!
今一度しっかり調べてみると、11〜12世紀頃まではツバメを意味する語だったそうで……。
ちゃんとした表記だったのですね!矢野芳香園ごめんなさい!
「Poul le Mouchoir」についても、「pour le」で「〜のために」という意味があるそうで、
「Mouchoir」と合わせると「ハンカチのために」となるようです!ポールじゃなかった(笑)
ハンカチに垂らして香らせる方法はこの当時の一般的な香水の使い方ですし、香水ビンのラベル
に表記される言葉として違和感ないものだと思います!
重要なことだと思いましたので、早々に訂正させて頂きました。
情報提供ありがとうございます!



背面にはシンプルに「ツバメ香水」と表記されたラベルがあります。
表に商品名の記載が全く無いワケですから、これは必要に迫られて付けた感アリアリですね(笑)



この香水ビンで一番気に入っているのは、実はこのガラス栓かもしれません。
私はこのタイプのガラス栓を、勝手に「ドアノブ型」と呼んでいます!

それにしても、矢野芳香園、情報がない!ないない!こんなに無いとは思いませんでした。
矢野芳香園と言えば、ツバメ香水の他にも「大学白粉」とか「美乳」とか、
コレクターならば大抵見聞きするようなメジャーな製品を沢山遺しているんですよね。
だから企業情報も結構残ってるのではと思っていたのですが、全然そんな事ありませんでした。
昔の企業のことを調べるのはやっぱり難しい、ということを今更ながら痛感してます。

定説では、1909年に矢野順藏が大阪で設立、同時に大学白粉発売……となっていますよね?
私もそれを信じこんでいて、1909年から商報を調べ始めたのですが、どうもおかしいのです。
まず、1909年1月の商報です。
矢野芳香園は1月1日発行の商報に、正月を祝う広告を出しているんです。
1月1日発行の商報に広告を載せるには、少なくとも1908年の末には紙面のスペースを確保して、
広告のデザインを確定しなければなりません。
それができるということは、矢野芳香園は1909年以前から存在しているということになります。
それから、決定的だったのは1912年3月のツバメ洗粉と金燕歯磨の発売広告です。
広告には「本舗始めてツバメ歯磨を公にしてよりここに満10年」
「ツバメ歯磨発売10周年記念」とあります。
ここで私は「えー!」と思わず声が出てしまいました(笑)
1912年の10年前は、単純に考えて1902年です。
これが「矢野芳香園設立と同時にツバメ歯磨を発売して満10年が経ちました」という意味の
文章だと解釈すると、1902年が矢野芳香園の設立年と考えられます。
定説の1909年と比べ、7年ものズレがあるということになるのです……
こりゃ一体どういうことでしょう。

となると、1909年から更に遡れば矢野芳香園のことがもっと分かるかもしれません。
ほんの少し面倒くさいですが(笑)地道に遡っていくことに……
すると、大学白粉の発売時期と発売元についても、新事実が発覚しました。

大学白粉といえば、矢野芳香園が設立と同時に発売した看板商品のイメージがありますが、
それもどうやら違うようなのです。
大学白粉の広告が初めて商報に登場するのは1907年7月になります。
発売記事掲載もこの頃ですので発売は1907年7月とみて、ほぼ間違いないと思います。
注目すべきは発売元の記述で、矢野芳香園ではなく、「大学白粉製煉所」とあります。
同じ年月日の商報に、矢野芳香園はツバメ歯磨の広告を出していますが、大学白粉との
関連を思わせるような記述は何もありません。
それ以降も、矢野芳香園と大学白粉製煉所、双方とも頻繁に広告を出していますが、
関連性を思わせるようなものは一切ありませんでした。
これは1908年1月の大学白粉の広告です。



商品名の書かれた黒板を指し示す、教授らしき人がイケメンです。手がでかい。
「大学白粉製煉所」の記述があります。

それが、1908年7月、いきなり大学白粉の発売元が矢野芳香園に変わります。
そして8月には特別製大学白粉なるものを発売しています。
この特別製は、矢野芳香園と合併?吸収?後のリニューアル商品だと思いますが、
中身は既製品と殆ど変わりなかったのでは……(笑)
この時まで、矢野芳香園はツバメ歯磨のみを自社製品として販売していたと思われます。
合併?吸収?の経緯については全くの想像ですが、歯磨粉だけでなく化粧品事業に
手を出したい矢野芳香園と、東京だけでなく大阪にも販路を広げたい大学白粉製煉所、
双方の利害が一致した結果ではないでしょうか。
(博士にこの件についてお伺いしたところ、「乗っ取り」の可能性もあるとのことでした。
矢野芳香園が大学白粉という人気商品を自社商品とするため、あまり穏やかでない方法を
とった可能性もあるとのこと)

本当なら、矢野芳香園が設立したと思われる1902年まで遡って調べたいのですが、
1897~1906年5月までの期間の商報は公表されていないので、1906年の6月までしか
調べられなかったのが心残りです。
東大の画像アーカイブスも画像のリンク切れで使えなくなってしまっているんですよね~
早く復旧して欲しいのですが……

今回新しく分かったことが多かったので、時系列の整理のため、年表を作成してみました。

1902年3月 矢野順藏が大阪で矢野芳香園を設立。同時にツバメ歯磨を発売。
1907年7月 大学白粉が発売される。発売元は大学白粉製煉所。
1908年7月 矢野芳香園が大学白粉の発売元となる。
1908年8月 特別製大学白粉を発売。
1911年3月 初めてツバメ香水の広告が現れる。発売もこの頃か。
1912年3月 10周年を記念してツバメ洗粉と金燕歯磨を発売。
1916年?月 矢野芳香園が「大学白粉」、丹平商会が「ツバメ化粧品」の専業になる。

1916年の「丹平商会がツバメ化粧品の専業になる」に関しては、詳しいことは
一切分かりませんでしたが、NCMでは書かれていることなので年表に入れておきます。
最近手にした絵葉書を見る限り、丹平商会がツバメ化粧品を扱っていたことは確かなようです。



桜だから、春に発行された絵葉書かな?
左下の桜の中に「品質優良 ツバメ香水 ツバメ歯磨 ツバメ洗粉 丹平商会」とあります。

ところで、肝心のツバメ香水です!
ハッキリとした発売広告があったワケではありませんが、1911年頃から広告が
よく見られるようになるので、発売もその頃かな?と思います。曖昧ですいません(汗)
1913年の小間物化粧品名鑑によれば、大瓶、中瓶、小瓶、大豆、小豆と、
豊富な容量展開がされていたようです。
私の持っている物は比較的小振りなので、小瓶か大豆かなと思います。
ここで広告の一つをご紹介します。1913年の広告です。
ツバメ香水だけあって「飛ぶように売れる」ことをアピールしております(笑)



1915年までの広告のビンは全てこのデザインですし、私の持っている物も同様です。
でもボトルソウドウさんの持っているツバメ香水は扇型のガラス栓なのですよね!
何種類かタイプがあるのかもしれません。ボトルソウドウさんのツバメ香水はコチラです。
背面に三越のラベルがあるので、三越百貨店に置くために作られた特別バージョンでしょうか。
このツバメ香水の他にも、百貨店とのコラボ商品は幾つか見たことがあります。
もう一つの可能性は、丹平商会がツバメ化粧品の専業になってからのデザインの変更です。
1916〜1925年の期間の商報も、閲覧不可なためそれを確認できないのが残念です。

ツバメ香水がいつまで販売されていたかですが、閲覧可能な1926年以降の商報では、
情報は見当たらないため、1916〜1925年の期間に販売を終了した可能性が高いと思います。
矢野芳香園に関しても同様なので、1916〜1925年の間に倒産してしまったのかも?

1916年の丹平商会へのツバメ化粧品の移動?が気に掛かります。
どうして丹平商会がツバメ化粧品の専業になるのかが分かりません。
その頃の丹平商会には、健脳丸や今治水などの看板商品が既にありましたでしょうし……
専業というよりかは、「矢野芳香園からツバメ化粧品の権利を買い取った」と表現したほうが、
実際に近いのではないかと思います。
経営の苦しくなった矢野芳香園がツバメ化粧品の権利を丹平商会に買ってくれるよう頼み、
同郷の丹平商会は矢野芳香園を助けるつもりで引き受けた?
それとも、ツバメ化粧品を丹平商会が「乗っ取った」ことで経営が苦しくなり倒産した?
真実は分かりません。
同じ大阪を拠点とした企業で、化粧品業と薬品業という似通った業界ですから、
接点が無かったワケでは無いと思います。
丹平製薬に問い合わせてみれば、そのあたりの経緯が分かるのかもしれませんが、
流石にその勇気は無いので、迷宮入りです(笑)

丸善化工株式会社 香水ゴヤ - 2016.02.21 Sun



コロンとしたフォルムのビンが可愛い!
丸善化工株式会社の香水ゴヤです。

このビンはそれなりに流通しているようで、時々見かけますね!
私は3種類持っています。
丸善といえば、インクのイメージが強いと思いますが、香水も出してたんです。
(厳密には丸善の子会社である丸善化工株式会社が出していたのですが)
独特な箱と、ゴヤというネーミング、丸善で香水?
ずっとその詳細が気になっていて、調べるぞ〜調べるぞ〜と思いながら早幾年……
今回やっと手を付けることができてスッキリ!です。





一番小さい物は箱入りだけど、状態はあまりよくありません。
サイズは縦4cm、横3cmほどです。
香水ゴヤには15cc入りと7cc入りがあるようですが、これは7cc入りだと思われます。
蓋が無く、ラベルもほとんど読めなくなっていますが、かろうじて「Goya」と読めます!
この口を見る限りでは、蓋はスクリューキャップだったのでしょうね。
底が厚くてポッテリとしたビンです。



そして、これは香水ビンよりも入っている箱がスゴいんです!
箱はいつも脇役ですが、今回は一番見てもらいたいところかも(笑)
一辺が約4.5cmから4.8cmの立方体です。
見ての通り木製で、蓋は金具で固定されており、小さいのに本当によく出来ています。
こんな立派な木箱に入っている香水なんて他に見たことがありません。
封紙にはゴヤの代表作「着衣のマハ」が印刷されています。
(印刷が褪せているのでよく見えません。「裸のマハ」の可能性もあります)



香水ビンはこんな感じで入っています。



箱の底面にはラベルが残されており、
「横浜市南区南太田町三ノ三一一 発売元 丸善化工株式会社」
「津市五軒町津ニ一九ニのニ 製造元 ゴヤ香水研究所」とあります。
丸善化工株式会社は1950年に設立された丸善の子会社ですので、それ以降に
作られた物だということが分かります。
ゴヤ香水研究所について、詳しい事はよく分かりませんでした。
多分、この香水の開発・製造の為に設立した研究所ではないかと思います。



こちらは箱入りより一回り大きい物です。
ラベル付きで「Goya」とハッキリ読むことができます!
ラベルには真ん中にうっすらと緑色の帯が残っています。
ここには、上から白・緑・赤の配色をしたブルガリア国旗が印刷されていたのでしょうが、
赤は退色しやすい色なので、緑だけが残ったと思われます。
(どうしてブルガリア国旗なのかは後述します)
ガラス栓は鮮やかな赤色をしています。



それからこちらは、ビンの形と大きさから勝手に「Goya」だろうと思っている物です。
他の2種類とは違って、ガラスは灰色がかっていて、蓋も赤というより焦げ茶色に近いです。
3種類の中で、ビンの歪みや気泡が一番多いんですよね。
これは戦況の悪化で物資不足に陥っていた時代の物なんじゃないでしょうか。



3つを並べてみました。
右から順に古い物なんじゃないかなーと思っています。

発売元の親会社である丸善株式会社は1869年に早矢仕有的によって横浜で創設されました。
有的は岐阜の医者でしたが、その才覚を見出した高折善六の勧めにより東京に出ます。
そして開業医の傍ら福沢諭吉の門下生として経済と思想を学び、
それが丸善の前身である「丸屋商社」を創設するキッカケとなりました。
「丸屋商社」は後に「丸善商社」と名称を改めていますが、それは恩人である高折善六への恩を
忘れないために考えた架空の社長名(!)である「丸屋善八」が元となっているそうです。
色々と緩い時代ですね(笑)!
丸善は西洋文化の導入という目的を掲げ、書籍、生活用品、化粧品、食料品にいたるまで
様々な商品の輸入販売、そして自社製品の製造販売も進め、企業として大きく成長していきました。
現在はどうかというと、事業内容は図書に関するものが主のようですね。
非常にタイムリーな話ですが、丸善は今年の2月に株式会社雄松堂書店と経営統合し、
現在は丸善雄松堂株式会社と名称を改めています。

肝心の香水ゴヤに関してですが、調べるのに苦労するかと思ったら、
案外アッサリと分かってしまいました。
丸善はなんと、グループ企業である丸善出版株式会社HPで、1980年に発刊した百年史の
PDFを公開しているんですね!
こういう企業もあるんだな〜と感心いたしました。
私のような人間にとっては非常にありがたいです!
既にご存知の方も多いでしょうが、興味のある方は是非御覧ください。

丸善出版株式会社 丸善百年史

百年史によれば香水ゴヤは1939年、ブルガリアとのバーター貿易により輸入され、
国内での販売を開始したとあります。
(巻末の年表では1937年とされています。この食い違いは何だろう?)
今回の記事を書いている最中に手に入れた香水ゴヤの戦前のチラシがあるのでご紹介します!



ローズの香りだと一目で分かるデザインです。



裏返すと商品説明と綺麗な写真が載っていますよ!



モノクロなので正確な色は分かりませんが、ラベルにはブルガリア国旗らしい印刷が!
「スエズの彼方から南国の香り豊かに……」とありますが、ブルガリアって南国だっけ(笑)?
香水ゴヤの他に携帯用の香水プチゴヤもあったんですね!



「ゴヤ」という名称を付けられた化粧品は、香水の他にもここに載っているローション、
それからクリーム、トニックがあったようです。化粧品ブランドの一つだったのでしょうね。

状態の良さや、文字の流れから、戦後のチラシかと思ったのですが、価格設定を見て
戦前の物だと分かりました。
1953年に復活した香水ゴヤは「15cc入りの大型が480円、7cc入りの小型が250円」と
広告に記述されていますが、このチラシには2円とあります。
インフレの影響を受けていない、戦前、戦中の価格だということが分かります。
蓋はスクリューキャップではなく、ガラス栓のようです。
となると、私の持っている箱無しの2種類の香水ビンは戦前の物だと推測されます。

戦況が悪化する中でも生産は続けられていたようですが、1944年の空爆による津市の
化粧品製造工場の焼失により、製造中止となりました。
輸入品なのに製造中止?と思いましたが、中身だけ輸入して工場で日本製のパッケージに
詰めていたということでしょうね。
それから9年後の1953年、香水ゴヤはデザインや香りはそのままに製造販売が再開されます。
これがその時の広告です。



写真が小さいので蓋がスクリューキャップかどうかは分かりませんが、
私の持っている箱付きの物は、この時に販売されていたものだと思われます。
しかし、例によっていつまで販売されていたのかは分かりません。
発売元の丸善化工株式会社は1968年に株式会社第一鋼鉄工業所に吸収合併されています。
この会社は元々、丸善の取引先だったようですが、1960年に事実上の子会社となっています。
スチール製事務用品の製造販売を主な事業とする会社なので、ここに吸収合併されたとなると、
化粧品事業がそのまま引き継がれたとは思えません。
衣料品や化粧品類を扱っていた他の丸善系列会社も、同年に親会社が吸収合併していますので、
丸善は1968年にその分野の事業から手を引いたと考えて良さそうです(あくまでも推測!)。
それと共に香水ゴヤの製造販売も終了したと考えるのが妥当でしょうか!?
ちなみに、株式会社第一鋼鉄工業所は今でも健在のようです。

最後に、どうしてこの香水が「ゴヤ」と名付けられたのかはサッパリ分かりませんでした。
発売当時、日本ではゴヤブームでも起きていたのか?
「着衣のマハ」が香水のイメージに合っていたのか?
ブルガリアとゴヤでは何の接点も思いつきませんし、謎です。
香水ゴヤが発売された1939年当時、国際情勢が非常に不安定だった時期ですが、スペインと
日本は良好な関係が保たれていました。
キャッチーでモダンな商品名を付けたいけれど、敵対する連合国に由来するような商品名は
付けられないし……と考えた結果、スペイン出身の画家であるゴヤに白羽の矢が立った!と
考えることはできないでしょうか?
「香水ブルガリア」で良いじゃん!とも思いますが(笑)ブルガリアという国の認知度が
当時どれほどだったかという事を考えると、「香水ゴヤ」のほうが、イメージとして民衆に
伝わりやすかったかもしれませんね。

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