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2018-09

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田端豊香園 カッピー化粧品・後編 - 2018.07.01 Sun

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さて、予告の通り、今回は田端豊香園の後編です。
前編まだ読んでないよ!という方は前編からお読み頂くのが良いかもしれません。

前編は、創業から1954年の『黒水仙』の商標権獲得までをまとめました。
ここからは、それ以降の豊香園の足取りを追っていきます。
先に言い訳をしておくと、後編は前編ほど起伏に富んだ展開が無いので、
若干、淡々とした内容になりそうです(汗)

1954年4月の商標権獲得から3ヶ月後、香水『タバニイン』『アマンテ』が発売されます。
タバニインが5000円、アマンテが3500円ですから、なかなかの高級品です。
1950年代の貨幣価値を現代に換算する場合、単純計算で約7倍とのことですから、
5000円は現代の35000円に相当することになります。
ちょっとビックリな価格ですよね〜!

10月の記事によれば、この時点で豊香園の香水は合計58種!
これら全ての香水を把握するのは、現代ではもう無理でしょうね……
発売広告を地道に追っていけばリストが作れるかもと思いますが、
広告を出していない製品もどうやらあるらしいので、難しい気がします。

年が明けて1955年、元旦の広告に田端氏のコメントが寄せられています。

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「創業満五十年と七十七歳の“喜寿”飛躍の新春を迎えました。」!?
1907年創業だとすれば、50周年はあと2年先のはずなんだけどなぁ。
よく分かりませんが、1955年は豊香園の50周年と田端氏の喜寿(77歳)ということで、
広告には一年を通して「50年」「50周年」という言葉が散見されます。
もしかしたら、田端氏の喜寿と合わせて祝うために、少しサバを読んだのでしょうか。

1955年1月から4月にかけて、香水『高原の花』『青い薔薇』『青春の夢』が発売します。
『高原の花』は1つ持っています。

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カッピーの綴りは「CAppi」。
蓋には、カッピーのロゴマークの簡易版?のようなマークがエンボスされています。
戦後はこのマークも使われていないように思っていましたが、
こういうところにさり気なく使われていたのですね。
住所を見てみると「豊玉」なので、残念ながら発売当初のものではないようです。

1955年4月、販売子会社の三豊商事を設立します。
豊香園製品の販売と、それに附随する事務の一切をこの新会社に委ねることで、
豊香園が製造に集中できる環境を整えました。
社長は熊坂彌造氏、取締役は田端氏の六男である哲朗氏、相談役は田端氏です。
ここで初登場の熊坂氏は哲朗氏の奥様のお父様だそうです。

ここで1つ、詳細な発売時期は不明ですが、
この当時販売していたのではと思われる香水を持っているのでご紹介しておきます。
香水『木犀』と『鈴蘭』です。

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ビンは香水『黒水仙』と同じですが、蓋は白くてラベルのデザインも違いますね!
住所は「東大泉」なので、1959年以前の製品であることは間違いなさそうです。
1955年4月の広告に、断言できませんが似たような香水の写真が載っています。
『木犀』と『鈴蘭』は、1953年に既に発売広告が出ているのですが、ビンが全く違うので、
1953年発売の物と同一の製品であるとは、どうしても考えられませんでした。
後になって、ビンのデザインが変更になっただけなのか、全く別物なのかは分かりません。

8月には50周年を記念して愛用者、お得意様を北陸地方の回遊に招待しています。
11月、田端氏は対談記事で、若さの秘訣を「毎朝のラジオ体操」と回答。
嘘か誠か、70歳を過ぎても出張に行く先々でラブレターを貰っていたらしいです!
12月には整髪料『ビビドブリランチン』(ビビド=ビビッド?)を発売しています。

1956年3月に香水『若き夢』が発売。
4月には、田端氏が日本一高齢で優秀な運転手として警視庁から表彰を受けています。

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ハンドルを握り、にっこり良い笑顔の田端氏。

田端氏は車の運転が趣味で、旅行でも自らハンドルを握ることが多かったそうです。
50周年祝いには新車を購入し、自らの運転で温泉旅行に行ったとか!
現代では、80歳を超えて運転する人も多いですが、
この当時では80歳近い人が運転するのは珍しかったのかもしれませんね。

1956年4月、豊香園の50周年と、田端氏の77歳の喜寿を祝う祝賀会が開かれます。
出席者は全国の代理店、業界関係者など、なんと合計200名余り!
田端氏の長年の功績を讃える和気あいあいとした会だったようです。
ところで、気になるのは豊香園の創業が何年なのかということ。
やっぱり1905年創業なのだろうか。。むむむ。。。

1956年5月、「ミス・カッピー」として歌手の築地容子さんが広告に初登場します。
有力な化粧品会社は戦前から芸能人を起用した宣伝活動を行っていますが、
豊香園ではこれが初めての芸能人の起用となります。
「宣伝で売るのではなく、品質本位で売る」というのが田端氏のモットーですから、
芸能人の起用は意外な印象ですが、50周年だからという理由もあったかもしれません。

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築地容子さん、お美しい方ですね。
頭上の香水は、1000円以上の価格帯の高級香水と思われます。
よ〜く見ると、箱の蓋裏側にカッピーのロゴマークが入ってますよ。
カッピーの高級香水は、その殆どが、分厚いガラスの高級なビンに収められていました。
詳細な発売時期は不明ですが、この頃に販売されていたと思われる香水を持っています。

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香水『フランス麝香』は前編でもご紹介したと思いますが、
これは、それの高級版という位置づけ?だったのかもしれません。
住所は「東大泉」なので、1959年以前のものということは確かです。
手に持つとズッシリと重い、重厚感のあるビンです。
THE・高級香水!という感じ。

1956年10月には、化粧水『オーデ・ハンガリー』、乳液『レモンミルキー』、
トニック『オードキニーネ』、香水『アベック・モア』を新発売。

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オードキニーネはなかなか独特なデザインのビンです。
っていうかキニーネって、あのキニーネが配合されているということ?
トニックに使えるようなイメージ無いんですけど、どうなんですかね?

1957年、驚いたことにこの年は田端氏の商報への露出が一度も無く、
代わりに哲朗氏が豊香園の副社長として頻繁に登場するようになります。
2月には、香水『夜間飛行』を発売。
ゲランじゃん!というツッコミを入れたい気持ちでいっぱいですが(笑)、
これも固有名称ではなくて一般名称という考え方なのでしょう。

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なかなか斬新な広告デザイン!ミス・カッピーの容子さんをチラ見せ(笑)
『夜間飛行』も色々な形のビンで売られていて、
この広告に掲載されているような形もあれば、下膨れの雫形のビンもあります。
年代によって違うのではなく、同時期に色々な形のビンで売られていたようです。

3月の記事で、副社長の哲朗氏は契約小売店の店主と対談しています。
この店主がなかなか辛辣な方で、「黒水仙のようなヒットがまた欲しい」
「伝統ばかり誇っていてもしょうがない」というようなことを仰っています。
先代の田端氏を前にしていたら、こんな事はとても言えないだろうと思います。
それだけ次世代の哲朗氏に期待しているということでしょうね。
6月には香水『モス・デ・サックス』、9月には香水『リリアネル』を、
さらに10月には『カッピーヘアオイル』を発売。
正確な時期は不明ですが、1955年に設立の三豊商事がこの年に解散しています。
6月以降の広告では三豊商事の表記が無くなるので、解散したのもその頃でしょう。
50周年の節目の年、更なる飛躍のための販売部門の独立だったと思いますが、
豊香園との連携や役割分担が上手くいかなかったのでしょうか。
わずか2年での解散となりました。

1958年は、一年間姿を消していた田端氏が再び紙面に登場するようになります。
3月には、自分の香水が貞明皇后の御霊前に捧げられた事を喜ぶ記事が掲載されています。
いつ頃からかは分かりませんが、田端氏は毎月、自社製品を皇室に献上していて、
貞明皇后はその中でもキャラが主体の香水をお気に召されていたそうなんですね。
そうした縁があって、女官の計らいで御霊前に香水が捧げられたということのようです。
4月には、香水『さわ桔梗』、5月には香水『黒い花粉』と『夜の蝶』を発売。
5月の商報によれば、田端氏はこの頃、ラジオ番組「香りのムード」へご出演しています。
しかも単発ものではなく、毎週土曜日放送の全12回に亘る放送だったとのこと!
是非とも田端氏の肉声を聞いてみたいのですが、音源はもう残っていないだろうな…
ニッポン放送に問い合わせてみようかしら。
7月には、『ローション徳用サイズ』、『ヘヤークリーム』、
『オーデコロン(シャネリア・コスモス・ヒヤシンス・ガーデニア・ネロリー)』が発売。
8月には『カッピー香水ポマード』、9月には男性用香水『ムスコン男性』が発売されます。
「ムスコン」は、麝香(ムスク)に含まれる有機化合物の名称だそうです。
豊香園で「男性用」と銘打たれた香水はこの製品が初めてだと思います。
1950年代半ばから後半に掛けては、女性用化粧品の売り上げが伸び悩み、
業界ではその打開策として男性用化粧品に大きな期待が寄せられていました。
『ムスコン男性』も、そのような情勢を意識した香水であったと考えられます。
哲朗氏についてですが、どうしたわけかこの年に豊香園の副社長をお辞めになっています。
副社長に新しく就任したのは、田端氏のご長男の田端利夫氏です。
利夫氏は煙草商社であるユニバーサル社の日本駐在所にお勤めだったはずですから、
その職を辞しての副社長就任ということになります。

1959年は、新製品の発売記事がほとんど見られません!
確認できるのは、前年に新発売のコロンに新たな香りが数種類加わったくらいです。
商報の情報が全てではないので、はっきり言い切るには根拠に欠けるかなぁと思いますが、
例年に比べて新製品が圧倒的に少なかったのは確かだと思います。
というのも、1958年の年末に、豊香園の社屋兼工場が火災に遭っているんです。
新製品の研究、開発どころではない状態だったのでしょう。
火災について詳細な記事がないので被害の大小は分かりませんが、
広告はこれまでと変わらない頻度で掲載されているので、
業務を全面停止しなければならないほどの被害はなかったと思われます。
しかし、これをきっかけに田端氏は社屋兼工場の移転を決意、
10月には練馬区豊玉北2丁目7番地に新しい社屋兼工場が完成しています。

この移転のおかげで、住所表記が「東大泉」の場合は1945年から1958年までの物、
「豊玉」の場合は1959年以降の物、と年代を推定することができます。

1959年は大変な1年だったのだなぁという印象ですが、良いこともありました。
それは田端氏の黄綬褒章の受章です。

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陛下のコックリを数えられる奥様の冷静さ、只者ではありませんね(笑)

黄綬褒章について詳しくないので調べてみると、
「第一線で業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する者」が対象だそうです。
受章すると皇居に招待され、天皇陛下に拝謁することができます。
皇室への忠義心に厚いと思われる田端氏は、これが相当に嬉しかったようで、
人に会う度に当日の様子を熱心に話して聞かせていたそうです。

1960年、御年81歳の田端氏は4月に天皇皇后両陛下主催の皇居園遊会に招待されています。
前年の受章に引き続き、これも相当嬉しかったのではないでしょうか!
7月には、『オーデコロン(黒水仙・キャラ・エメロード)』を発売。
豊香園では1958年からオーデコロンに力を入れているようで、香水より目立っています。
11月には、『エアゾール香水(シャネル・ブーケ・オリエンタル)』が発売。
当時は画期的だったスプレータイプの香水です。
シャネルって(笑)…やっぱりN°5を意識した香りなのだろうか。

1961年の2月、豊香園の社長がとうとう交代となります。
田端氏は取締役会長に就任し、新しく社長に就任したのは、林貞雄氏です。
林氏は田端氏のご令嬢のお婿さんで、田端氏とご同郷の和歌山県ご出身です。
経歴には「ダムセル香水本舗社長」とあります。
そういえば、1960年6月から豊香園の広告に「姉妹品:ダムセル香水」と記載がありました。
この記載については疑問に思っていたのですが、お婿さんの製品だったのですね。
豊香園の社長になる前の腕試し?といったところでしょうか。
田端氏はご高齢ですが、取締役会長に就任ということでまだまだお元気のようです。
3月にはエアゾール香水の新たな香りとして、『シャブラン』と『シャノアール』が発売。

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広告左上が『シャブラン』と『シャノアール』。
この2種類の新作のパッケージは、これまでになく直線的でモダンなデザインです。
プラスチック製なんだろうけど、かっこいい!欲しいなぁ〜
5月には、田端氏が『黒水仙』名称の使用について注意喚起の広告を出しています。
発足後しばらくは目立つ活動が見られなかった「黒水仙委員会」ですが、この頃から、
『黒水仙』を無断で使用する同業者への対策が活発化していきます。
1954年の商標権獲得から既に7年が経過していますが、名称の人気は衰え知らずですね。 
6月には、香水『ともしび』『夜霧』『ローン』『いづみ』『マリモ』、
『オーデコロン(若草・白夜・おとずれ)』を発売。
さらに12月には、『デラックスオーデコロン(ダリア・モクリス)』を発売します。

年が明けて1962年1月、林貞雄氏は社長になって初めての年頭挨拶で抱負を語っています。

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外国製より良い香水を作り、香水輸入の不必要を証明する…という趣旨の内容です。
外国製香水の追放を悲願とする田端氏の意志を引き継いだ内容と言えますね。
この頃は、貿易自由化の波が化粧品業界にも押し寄せていましたから、
そうした情勢も意識して発言なさってるのが分かります。

一方、田端氏は3月に会員19社の代表を集めて黒水仙商標擁護協議会を開いています。
協議会では15社に対して警告を行ったこと、デパートや卸売業者に商標擁護の協力を促すこと、
経費の関係から会員の更新は1年から3年毎に変更すること等が報告、可決されています。
商標権を獲得して終わりではなく、それを守るためには継続的な努力が必要なのですね。
10月には整髪料『カッピーヘアスプレー(黒水仙の香り)』が発売。
黒水仙人気はまだまだ継続中のようです。

1963年になると、豊香園の商報への露出が少なくなります。
7月には整髪料『カッピーボントン』が発売しますが、他に新製品は見受けられません。
前年もこの年も、新作は整髪料のみです。
男性向けの化粧品の中でも、特に需要があるのは整髪料ですから、
売れ行きや将来性を考えると力を入れるのは当然と言えるかもしれません。
ですが豊香園の主力であるはずの香水の新作が無いのは、ちょっと寂しいですね。
製品の広告の掲載も、1年を通してたったの2回だけ!
ちなみに前年は4回です。あれ、前年も少ないですね。
社長交代で少しずつ風向きが変わってきているのでしょうか。
一方、田端氏は黒水仙商標擁護協議会の総会を定期的に開いていて、
一向に減らない『黒水仙』の不正使用者への対策に追われています。

1964年、商報への露出は相変わらず少ないものの、4月(5月かも…)に
久々となる香水の新作『カロリーン』『青いばら』『紫禁城』を発売。
11月には田端氏に勲六等瑞宝章が授与されています。
勲六等瑞宝章は「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与されるもので、
田端氏の場合は「国産化粧品の品質・地位向上に尽力した」実績が評価されたそうです。
戦前から「国産」にこだわってきた田端氏の貢献が認められたと言えます。
田端氏は御年85歳、長生きはするものですね!
前年から引き続き、黒水仙擁護協議会の総会が何度か開催されていますが、
豊香園の元副社長で専務の哲朗氏が田端氏の代理で出席しています。
あの、お元気な田端氏が出席を控えるというのは非常に珍しいことです。
この頃から田端氏の健康状態に不安が出てきたのではないでしょうか。
代理で出席している哲郎氏ですが、この年に豊香園を退社しています。
そして勢林堂という新会社を設立、お名前を「康雄」に改名しました。
おそらく戸籍の名前は変えずに通称を変えただけと思いますが、
独立起業するにあたって並々ならぬ決心があったものと推察します。

1965年3月、独立した哲郎氏は、アメリカのハウス・オブ・シブイ社と契約、
日本における香水の製造販売権を獲得し、業界に本格的に進出します。
本筋に関係ない話ですが、社名「シブイ」のインパクトに惹かれて調べてみました。
当時、アメリカに巻き起こっていた日本ブームに乗って、アメリカの企業が
日本をイメージした香水『しぶい』を発売します。
このアメリカの企業の名称がハウス・オブ・シブイ社なんです!
日本企業が一切製作に関わっていない香水にも関わらず、アメリカ国内では
「日本香水の上陸一番乗り」と紹介されたとか。
その香水の実物のお写真がこちら!

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ちょっと画像の解像度が低くて申し訳ないですが、分かりますか?
桐の小箱に錦蘭の巾着袋付きという、徹底した「日本」っぽさ!
う〜ん、しぶい!
アメリカでのウケは良さそうですが、これを日本に輸入するのはどうなんだろうか。
ebayで検索すると、もっとシンプルな箱に入ったものがヴィンテージの香水として
出品されていたりします。

話は戻りますが、1965年は豊香園そのものにあまり活発な動きが見られません。
新製品の発売も、確認できるのは10月発売の高級石鹸『パールケーキ』のみです。

1966年は新年を迎えるとともに香水『夜の恋人』が発売されます。
そして9月には、カッピーではなくレイナのブランド名で20種類の化粧品を新発売します。

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レイナは全品200円という安価なブランドで、スーパーでの販売を念頭に置いた商品でした。
レイナという名称が以前に確認されたのは1950年、その後の存在感が全く無かったので、
消滅したのかと思っていたのですが、ここに来てまさかの復活です。
この当時、化粧品の価格妥当性に疑問を持ち始めた消費者をターゲットにした
「セザンヌ」や「ちふれ」などの安価な化粧品ブランドや、
低価格の商品を提供するダイエー(今は亡き…)などのスーパーが注目を集めていました。
レイナ化粧品は、そうした時世に合わせた商品と言えます。

少し話が逸れますが…
化粧品の価格妥当性に関する議論は、現代でも存在しますよね。
価格の大半を広告宣伝費が占めるのではないか、との主張はこの当時から見られます。
(この説については根拠が無いにも関わらず都市伝説的に語り継がれているイメージ)
化粧品の選択肢が少なかった当時の女性たちにとっては、重要な問題でしょうね。
現代では安価な化粧品が充実してますし、海外の物もネットで比較的簡単に手に入ります。
60年代の女性達から見たら、化粧品が選び放題の現代は夢のようかもしれません。

1967年3月には香水『タキシード』、8月には『カッピーマニキュア』12色と除光液を発売。
1968年2月にレイナの広告がありますが、品目23種類、価格が100円に変更されています。
同じく2月に『四百円オーデコロン(黒水仙・キャラ・ヘリオトロープ)』と
『五百円オーデコロン(黒水仙・黒けし)』が発売。

そして1968年11月24日、田端氏がご逝去されます。
12月の商報では、「90歳で天寿を全うされた田端翁」との記述がありますが、
1879年のお生まれと推測していたので、あれ?89歳では?と思いました。
1878年のお生まれか、数え年かもしれませんね。
11月29日に社葬が執り行われ、多数の業界関係者が参列したそうです。
日本における香水の第一人者とも言える田端氏の死去。
1つの時代の幕が下りたかのような、寂しい気持ちになります。
「外国製香水の追放」という夢を持ちながら、志半ばでの死去となりましたが、
人生の最後の最後まで、情熱を持って取り組める夢があるのは幸せなことだと思います。
その夢とは裏腹に、日本の香水メーカーを取り巻く様相は厳しさを増していきます。

貿易自由化によって上陸した外国メーカーの香水は、香りだけでなく、
ファッション的なセンスに優れており、高価にも関わらず売り上げを伸ばしていきました。
更に、資生堂やカネボウといった国内有力企業も続々と新作の香水を発表します。
戦前から、香水が西洋化粧文化の象徴として認識されてきた日本の消費者にとって、
香水を買うことは「夢」や「憧れ」を買うことと同義です。
ファッショナブルで現代的な美をトータルで提案する有名ブランドの香水は、
消費者に「夢」を与える事に成功しました。
ただでさえ市場規模の小さい日本でシェアが奪われてしまっては、立つ瀬がありません。
伝統や歴史、技術はあっても「イメージ」の面で太刀打ちできない香水専門メーカーは、
徐々に苦しい立場に追い込まれていきます。
(このあたりは、私の勝手な妄想が含まれます…)

田端氏の死後の豊香園を見ていきましょう。

1969年7月に香水『宝想花』を発売。
実は『宝想花』は1955年から存在が確認できるのですが、正確な発売時期は不明なんです。
今回の発売は、元々あった『宝想花』のリニューアルと考えて良いかもしれません。

『宝想花』はいくつか持っているので比較してみました。

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こちらは見るからに高級そうなので、『宝想花』の高級バージョンかな?
扇形に広がったガラス栓が綺麗です。
住所は「豊玉」なので、1959年以降のものですね。

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箱付きの『宝想花』。ビンは雫形です。
香水を保護する薄い紙(これって正式名称あるの?)には「CAppi」と印刷されてます。
布張りの箱付きで仄かに高級感があるにも関わらず、蓋が物凄いシンプル!
住所は「豊玉」なので、これも1959年以降のものだと思います。

1970年1月の年頭挨拶では、林貞雄氏が「外国製香水の輸入が始まって、日本女性の
香水への関心が上がってきた。香水の未来は明るい」という趣旨の発言をしています。
1971年7月には、『パヒュームコロン(フロリナ・アンタリア)』という新製品を発売。
キャッチコピーが「ゴージャスな香りの装い」ですから、高級コロン的な製品でしょうか。
1972年2月には、『カッピーオーデコロン(黒水仙・キャラ)』が発売。
オーデコロンは、何度も新発売していて何が何だかという印象ですが、
それぞれ香りや容量、容器のデザインなどが違うようです。
今回発売したコロンは、プラスチック製の透明の箱に造花と共に収められています。
林貞雄氏はこのオーデコロンについて「決して高級外国品に劣るものではない」
「着実に売り上げを伸ばし、この難局を乗り越えたい」としています。
日本の香水メーカーとして厳しい局面にあることが伺えるコメントです。
同年7月、『カッピー香水エクストラ(黒水仙・夜の恋人・フロリナホワイト)』が発売。
「香料濃度の濃いコクのある香り」と説明されており、価格も1000円と少々お高めです。

1973年以降、豊香園に関する記事はほとんど見られなくなりますが、
製品の広告はかろうじて確認することができます。
広告で確認できる限りでは、1973年は香水『愛のささやき』、
1974年は『オーデコロンデラックス』、
1976年は『オー・デ・コロン(黒水仙・ヘリオトロープ)』、
『パヒュームミスト(黒水仙・もくせい)』、
1977年は『オードトワレ(黒水仙・アモーレ)』が発売されたものと思われます。

私が資料として利用している「週刊 日本粧業」は、1977年3月で一時休刊となり、
「日本粧業速報」がその代わりとなります。
この速報はビジュアルが一切なく、情報量も少ないんですよね〜
最後に豊香園の存在が確認できるのは1978年6月の速報です。
東京化粧品工業会の理事の1人として「石山博基(田端豊香園社長)」の記載があります。
1977年6月の速報では、林貞雄氏が豊香園の社長として記載されていました。
その後1年のうちに、石山博基氏という人物に社長が代替わりしたようです。

私の知る限りでは、豊香園の消息はここで途絶えます。
1979年から80年代はじめ頃に、会社は廃業となったのではないでしょうか。

しかーし!!!!
田端豊香園が終わって、全てが終わったわけではないんです!
豊香園の代名詞である『カッピー香水』は、その製造販売権が他社に譲渡され、
以降も存続していたようなんです。
これについては、こちらのブログ様(日々の暮らしを駆け抜けて生きる人でありたい)で
その片鱗を知ることができます。
お問合わせの際の赤田物産のご返答が確かであれば、こちらのブログ主様のご推測の通り、
まず赤田物産が豊香園から『カッピー』の製造販売権を譲り受け、
その後に東邦ケミカルが赤田物産から『カッピー』を譲り受けた…という事になります。
赤田物産は現在も営業しておりますので、私もメールで問い合わせたところ、
お返事は頂けたのですが、当時のことは何もご存知ないご様子でした。
20年以上も前のお話ですし、当時を知る方は残っていないのかもしれないですね。

私は赤田物産のカッピーは持っていませんが、東邦ケミカルのカッピーは持っています。

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光りを通さない、真っ黒なガラスがカッコイイです!
ビンの形は『フランス麝香』の高級版、ラベルは『宝想花』の高級版にそっくりです。
豊香園時代の香水の雰囲気がそのまま引き継がれているように感じます。

それから、製造が豊香園では無さそうなものも紹介しておきます。

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かなりポップでカラフルなデザインです!
コロンとして可愛いのですが、私が個人的に抱く豊香園のイメージとは少し違うんですよね〜
70年代後半、豊香園の廃業に近い時期に作られたものか、
もしくは赤田物産か東邦ケミカル?
製造販売元の表記がどこにも無いので、想像するしかありません。

少なくとも2社に『カッピー』が引き継がれていたとすれば、
カッピー香水そのものは、案外、最近まで存在していたのかもしれません。
豊香園が廃業した後も、受け継がれた『カッピー』というブランドは、
それだけ多くの人に愛されていたのでしょうね。
1980年代、もしかすると1990年代も、まだ『カッピー』は作られていて、
自分が生まれた時にも『カッピー』は存在していたのでは…、
と思うと、なぜか、嬉しいような、不思議な気持ちになります。
遠い昔と思っていた物事が、自分の生きる時代に僅かながらリンクしているとすれば、
ロマンを感じずにはいられません!

カッピーについては個人的な思い入れもあり、かなり時間が掛かってしまいました。
資料を元に妄想した部分も多いので、内容の信憑性については保障できません(キッパリ)。
当時の化粧品業界の情勢なども考慮に入れつつ書きたかったので(付け焼刃的知識だけど…)
途中、脱線した部分も多かったと思いますが、ここまでお読み下さった方に感謝します。
豊香園とカッピーの最後については結局はっきりした事が分からず不完全燃焼気味です。
アダチヨシオ氏によれば、ジャンボリーでビンの展示をした際に、
田端氏の御子孫の方がいらっしゃっていたそうです!
今後、運命的な巡り合わせがあれば、後年の事をお伺いすることもできるのではないか…
と勝手に夢見ています(笑)

最後に、今回分かったことを年表にまとめてみました。
商品の発売まで含めると、年表も相当な長さになってしまうので、
要所だけをまとめたものにさせて頂きます。
ちなみに、田端氏の生年について前編では「1879年」としていましたが、
それより1年早い「1878年」のほうが色々と辻褄が合う気がしてきましたので、
「1878年」に変更いたします。

1878年 田端氏が和歌山県で生まれる(推定)
18??年 勉学のため和歌山県から横浜へ移住
1902年 化粧品業界で働きはじめる(推定)
1906年 ドイツ、フランスへ渡る
1907年 アメリカから帰国後、横浜で田端豊香園を創業
1932年 国産カッピー化粧品を発売(全22種類)
1935年 大陸を視察
1936年 制度品システムを導入、東京ボーネット会を設立
1940年 牛込区市ヶ谷谷町51番地に新社屋兼工場を建設
1943年 牛込区の社屋兼工場が空襲で焼失。浦和市で機械工業を開始(推定)
1945年 板橋区東大泉町で化粧品の製造を再開
1947年 練馬区東大泉町366番地に新社屋兼工場を建設(板橋区から練馬区へ編入)
1950年 ボーネット会(制度品システム)復活
1951年 香水『黒水仙』を発売。ヒット作となる
1953年 高級香水を中心に商品を展開
1954年 『黒水仙』の商標権を獲得
1955年 創業50周年を迎えると共に、販売子会社の三豊商事を設立
1956年 創業50周年と田端氏の喜寿を祝う祝賀会を開催
1957年 三豊商事が解散
1958年 練馬区東大泉町の社屋兼工場が火災に遭う
1959年 練馬区豊玉北2丁目7番地に移転し、新社屋兼工場を建設
1961年 田端氏が取締役会長に、林貞雄氏が社長に就任
1966年 低価格化粧品『レイナ』発売
1968年 田端氏が90歳で死去
1978年 石山博基氏が社長に就任(推定)
198?年 豊香園が廃業(推定)
198?年 赤田物産に『カッピー』の製造販売権を譲渡(推定)
198?年 赤田物産が東邦ケミカルに『カッピー』の製造販売権を譲渡(推定)
19??年 『カッピー』製造終了

【追記】
豊香園の住所について、ちょっと気付いた事があったので追記します。
終戦当時「板橋区東大泉町」だったのが「練馬区東大泉町」になったタイミングについてです。
私はどうして「区」ではなくて「町名」を年代推定の判断基準にしたんだっけ?
と今更ながら疑問に思って調べてみると、東大泉町は1947年に練馬区に編入されて
「練馬区東大泉町」になっているんですよね。
1959年に移転した住所は「練馬区豊玉北」で、移転前も移転後も練馬区だから、
私は町名を判断基準にしようと思ったワケです。
これについて言及しなかったのは、単純に私自身その事を忘れていたからです(笑)
気付いてしまうと、そのままにしておくのも気持ち悪いので、追記することにしました。
ということで、戦後の住所の正しい変遷としては、
板橋区東大泉町(1945年〜)→練馬区東大泉町(1947年〜)→練馬区豊玉北(1959年〜)
となります。年表も合わせて修正しておきました。
年代推定にお役立て頂ければと思います。

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田端豊香園 カッピー化粧品・前編 - 2018.06.10 Sun

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これまた、物凄いご無沙汰してしまいました!
この間、ブログのビン業界(?)ではニューフェイスの方がどんどんと
増えていらっしゃるようで、完全な浦島太郎状態です。

骨董市でお会いする方々に「ブログ更新してないね!?」という反応を頂いて、
「いやいや、このままじゃイカン!」と思わせられました。
楽しみにしてくれている人がいるのは有り難いことです。
更新する意欲は満々だったのですが、じっくり調べたいこともあり、
しばらく休止のような状態になってしまいました。
死んだと思ったらいつのまにか復活している、
そんなブログですが、これからも宜しくお願いします。

さて、冒頭のお写真で既にお分かりかと思いますが、
今回取り上げるのは田端豊香園のカッピー化粧品です!
(正確には「国産カッピー化粧品」。この「国産」には大きな意味があります)

田端豊香園は多くのサイトで「詳細不明」と説明されていますが、
商報では広告出しまくり、記事出しまくりの露出度高めなメーカーなので、
何とかなりそう?と軽い気持ちで調査を開始しました。
それが、こんなに長い時間が掛かってしまうとは…!
しかもやっぱり分からないことが多いです、毎度の事ながら。
そして毎度の事ながら長文となりますが、興味のある方はお付き合いください。
今回はボリュームがあるので、当ブログ初となる前編・後編の2本立てです。
前編では会社の創業から、代表作である香水『黒水仙』の発売まで、
後編では『黒水仙』発売後から会社の終焉と『カッピー』のその後を書く予定です。
(以下、田端豊香園は豊香園、田端豊吉氏は田端氏と表記します)

ここからは豊香園の歴史について書いていこうと思うのですが……
まず、豊香園の創業年がよく分かりません!
創業年について言及しているサイト、商報の記事や広告が複数あるのですが、
内容が食い違っているのです。

渋沢社史データベース→1907年
NCM→1908年
1954年6月の商報記事→1908年
1956年5月の商報記事→創業50年の式典が開催されているので創業は1906年?
1970年10月の商報記事→1907年

1970年の記事では、正式な企業情報として1907年と記載されていますから、
とりあえず、1907年創業説を当ブログでは推したいと思います!

豊香園の創業者である田端氏は、1879年に和歌山県でお生まれになりました(推定)。
ご本人の回想では、年少期に志を持って横浜へ渡り苦学力行した、とあります。
田端氏にとっての「年少」ってどれくらいだろう…10代はじめ頃でしょうか。
1960年6月の商報記事では、「業界へ入ってから今年で58年」とありますので、
化粧品業界で働き始めたのは1902年、田端氏が23歳の時と推定できます。
1907年に創業するまでの5年間の動向は殆ど不明ですが、
1906年にドイツとフランス、1907年にアメリカへ渡り香水作りの技術を学んでいます。
香水作りを学んだ動機ですが、欧州で買った香水が素晴らしかったので、
「よし、私も香水を作ってみよう!」と決心したらしいです。
これだけ聞くと、随分ノリが軽いように感じますが(笑)当時は日本から欧米まで
船旅で一ヶ月以上は掛かりましたし、旅費も相当なものでした。
そこまでして香水を学びに行くのですから、やはり並々ならぬ決意があったのでしょう。
アメリカから帰国後に田端氏は豊香園を創業、最初の製品を横浜で発売しました。
それからカッピー化粧品の発売まで、豊香園の名前は商報でも全く見受けられません。
この空白の25年間の商売については、田端氏が以下のように回想しています。

「創業早々フケ取り香水を作ったとき、薄荷を使っていたところ、
もっと刺激が強いのが欲しいと言われ、唐辛子を入れてウケたこともあった」

「慶応大学横の坂道を、自分の作った商品をリヤカーに山と積んで引いて登ったものだが、
坂が長くハァハァ息が切れて苦しかったものだった」

「当時は私も輸入をやっていた。輸入のものはワトキンソンのホワイトローズ、
ドイツのシンメルのものなど安香水が売れていた」

「私の香水が、一流の舶来品専門店に“外国品よりも良い”と言われた時はうれしかった。
資生堂へ持って行ってもほめられたことを覚えている」

オリジナル製品の販売だけでなく、輸入品の販売もやっていたというのは意外でした。
当時は特に大きな宣伝をすることもなく、地道に売り歩いていたようです。
カッピーというブランドはまだ無いものの、創業当時から香水は好評だったのですね。
あの資生堂へも持ち込んでいたとは、そして褒められていたとは、驚きました!
唐辛子入りのフケ取り香水は一体どんな使用感だったのか気になります…!

1934年1月の広告では、『国産カッピー化粧料・クール化粧品本舗 田端豊香園』
と記載があり、豊香園のブランドは『カッピー』だけではなかった事が分かります。
また、1935年7月の広告では『レイナ』というブランドがある事も分かります。
創業してから『カッピー』を発売するまでに、25年掛かっているわけですから、
その間もオリジナルのブランドがあったのだと考えても不思議はありませんよね。
豊香園といえば『カッピー』しかないようなイメージですが、『クール』や
『レイナ』というブランドが、豊香園の25年間を支えていたのかもしれませんね。

商売を続けて25年が経った後、1932年5月に『国産カッピー化粧品』が発売しました。
発売当時、田端氏は既に53歳(推定)!もう少しお若いイメージだったので意外です。

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これまでと打って変わって、華やかな宣伝広告を出し、業界の注目を集めました。
「殊に素晴らしき芳香の魅惑、三二年の高踏的作品!!
 けだしニュータイプの出現は近代化粧品界の豪華を誇り、王座の冠を全うするもので有ります」
物凄い自画自賛っぷりで、むしろ清々しいです!
日本で「ニュータイプ」って言葉を使ったのはガンダムが最初かと思ってましたよ。

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発売当時の化粧品一覧。
レパートリーは充実していて、香水は勿論のこと、ベーラム、クリーム、粉白粉など、
その数は22種類になります。
田端氏は発売当時の事を1960年6月の商報で以下のように回想しています。

「高級品は滅多に売れず、売れても外国品崇拝思想が強くて国産品の入り込む余地はなかった。
私は、この外国崇拝の迷信を打破しようと考え、自社の製品には必ず国産カッピーと、
『国産』の二文字をつけたものである」

田端氏がこの新製品に込めた思い入れが分かります。

ところで、商報を読んでいて、1つ気になる広告を見つけました。
豊香園の国産カッピー化粧品とは別に、カッピーという製品の広告があるのです!
しかも、そのカッピーは豊香園が国産カッピー化粧品を発表する以前から、
商報に広告を出しているのでした。

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広告には「仏蘭西 巴里 セラミー會社製」とあります。
このセラミーについては、日本のサイトでは殆ど情報が得られなかったので、
語学堪能な友人Aに調べて頂きました。
(私のダレトクな趣味に理解を示してくれる数少ない友人です。ありがとう!)
その友人Aが見つけた、フランス版wikiのウビガンのページの記述によれば、
セラミーは1921年8月にウビガンの子会社としてアメリカで設立し、
1965年頃まで存在していたようです。
親会社はフランスの老舗香水メーカーのウビガンではありますが、セラミー自体は
紛れもなくアメリカで誕生したアメリカの会社なワケですね。

それでは何故、私の見た広告には「仏蘭西 巴里 セラミー會社製」とあったのか?

これについては、海外サイト(Collecting Vintage Compacts)で知ることができます。
当時のアメリカではフランス製の香水が圧倒的な人気を誇り、
アメリカ国内のメーカーはシェアのほとんどをフランスのメーカーに奪われていました。
これを良く思わないアメリカはフランスからの輸入香水に高い関税をかけたのです。
そうして、輸出によるビジネスが事実上不可能となったフランスの香水メーカーは、
アメリカに子会社を立ち上げ、オリジナルの製品を製造、販売しました。
しかしながら、フランス製の香水が人気であることには変わりないので、
フランス製を装った製品が多く出回ることになるわけですね。
セラミーのカッピー(以下Cappiと表記)も、そうした製品の一つであったようです。
アメリカ製のCappiのパッケージには「PARIS FRANCE」とはっきり書いてあります。

Cappiはセラミー会社設立から4ヶ月後、1921年12月にお披露目となりました。
他に類のない名前で、発音しやすく覚えやすいのでCappiと名付けられたそうです。
どういう意味の言葉なのか、長年、気になっていたんだけども、
特に意味は無かったのか…と思うと、少し複雑な気持ちになります(笑)

日本粧業会では1915年から1925年に発行された商報は未公開であり、
いつ頃からCappiが輸入販売されていたか、はっきりとは分かりません。
しかし1926年の商報で既に広告が見受けられるので(関税変更による値上げの記事)、
1921年から1925年の間には輸入販売が始まっていたと考えられます。

さて、ここまで書けば私が何を言いたいかは分かるでしょう。
つまり豊香園のカッピーには、セラミーのCappiという元ネタがあったということ!
商品名はそのままで、デザインもとてもよく似ています。
豊香園がセラミーから、カッピーの製造販売権を譲り受けたのか?とも考えましたが、
国産カッピー化粧品の発売当時の広告にはセラミーのセの字も出てきませんし、
豊香園がカッピーを発売後も、セラミーのcappiの広告は出続けています。
カッピーとcappiの広告が同じ紙面に載っているのは、なかなかシュールな光景です。
パクリに厳しい現代では批判は免れないと思いますが(例:東京五輪ロゴ盗作疑惑)、
当時の業界の反応は?というと、批判どころか一様に歓迎ムード!

なぜ、国産カッピー化粧品が何の問題もなく、業界に受け入れられたのか。
単純に、当時のモラルやルールが現代とは異なるからだとも言えますが、
その他の理由として、国産化粧品の国内における立ち位置も関係するのではと思います。
先述の田端氏の回想にもありますが、当時は国産よりも外国製化粧品が高品質とされ、
国内の化粧品メーカーは悔しい思いをしていました。
外国製に勝る国産化粧品を作ることが業界の一つの目標であり、悲願だったのです。
豊香園は、既に知られているCappiと殆ど同じものを遜色なく作ってみせることで、
「ビンもラベルも中身も、国産でこれだけ良い物が作れるんだぞ!」と
国産品の実力を消費者にアピールしたかったのではないでしょうか。
外国製化粧品を真似るメリットは、お客が外国製と誤解して買うところにありますが、
豊香園はハッキリ「国産」と銘打っているので、そういう魂胆はなかったと思います。
「国産」であると宣伝しても売れるだけの品質を備えている自信があったのでしょう。
つまり豊香園は、外国製化粧品に対して堂々とケンカを売ったのです。
一方、ネタ元であるCappiはアメリカ製であることを隠して売っています。
(当のセラミーは、フランス風に作っただけでアメリカ製であることは隠していない…
と主張していますが、製品に「PARIS FRANCE」と記載するのは、ちょっとなぁ)
パクりか否かで考えれば、「国産カッピー化粧品」は確かにパクリと言えるんだけども、
製品に懸けた心意気で考えると、セラミーよりも断然かっこいいんですよね。

カッピー化粧品が発表された当時は、大恐慌、満州事変などを経て
日本と連合国との間に対立が深まり、国産品愛用の気運が高まっていました。
商報を読んでいても、国産品愛用を謳う広告が散見されます。
こうした中、日本の業界で初めて(?)「国産」をウリにしたカッピー化粧品は、
時代の空気を読んでいたとも言えるかもしれません。

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実は、冒頭の写真の右から2番目のビンは豊香園ではなく、セラミーのcappiです。
cappiの香水瓶は大きい物と小さい物、2種類を持っています。
今回の記事を書こうと決めてから、家にある豊香園のカッピーをかき集めたのですが、
悲しい程バリエーションが乏しかったので、セラミーのcappiを紛れ込ませました。
「右から二番目は豊香園じゃないぞ!」と気付かれた方はアッパレです!
ここで、豊香園とセラミーのカッピーの見分け方を少し解説したいと思います。
まず、商品名の綴りですが豊香園が「CAppi」、セラミーが「Cappi」です。
それからセラミーは「CHERAMY」と社名が明記してあります。(これは当たり前か!)
「PARIS FRANCE」と明記してあるのも、セラミーの特徴です。理由は前述の通りです。
両者共にトレードマークがあるのですが、これは全然デザインが違います。
豊香園は富士山のようなもの、セラミーは香水ビンと鏡台がイメージされたものです。
以上を踏まえて、豊香園とセラミーの粉白粉を見比べてみましょう。

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違いが分かりますでしょうか? 似てるけどビミョーに違いますよね。

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左は豊香園の、右はセラミーのトレードマークです。
セラミーは目立つ場所にこのマークのステッカーが貼られていますが、
豊香園はこのマーク、あんまり積極的に使ってないんですよね。
新聞広告や粉白粉の裏側などには表記されているんですけど……。

豊香園は、トレードマークや広告では綴りが「Cappi」だったりして、
綴りに対して特別なこだわりが無く、むしろ無頓着なのが伝わってきます(笑)
また、戦後には製品についても「Cappi」の綴りが増えていきます。
セラミーは第二次世界大戦を境に日本での存在感が消えて無くなるので、
わざわざ違いを出さなくても良くなったのかな?

話を豊香園のカッピーに戻しましょう!
カッピー化粧品発売後は旅行の当たる特売など、販促キャンペーンを頻繁に開催しました。
1932年9月の商報では、フランス汽船アトス号での夕食会の模様が記述されています。
その中で、カッピー化粧品の総代理店、鈴木福次郎商店の店主である鈴木福次郎氏は、
カッピーは1922年にラテン語を参考に命名、その後事情があって発売を控えていたが、
田端氏のおかげでようやく完成できた、と説明しています。
カッピー化粧品が鈴木氏の発案で誕生したオリジナルであるかのような説明ですが、
セラミーのCappiが発売されたのは1921年12月ですから、1922年に着想を得たというのは、
要するに、まぁ、そういうことでしょうね…お察しください(笑)
カッピー化粧品については、田端氏ご自身の発想によるものかと思っておりましたが、
この記事を読む限りでは鈴木福次郎氏がその誕生に一役買っていたようです。
鈴木氏は化粧品との縁の深い人物で、ナルビー化粧品という自社ブランドも持っています。

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1933年1月には、田端氏の顔写真付きの年頭挨拶が商報の紙面に初めて登場します!
年頭の挨拶は、それなりに知名度の高い業界人が寄稿している事が多いので、
この時点での、田端氏の業界での存在感を伺い知ることができます。
ちょっと残念なのは、この記事では「時局」に関する発言が大部分を占め、
自身の近況については殆ど語られていないこと!
非常時の心構えを持ち、業界のため国のために尽くす……と熱弁しています。

国産カッピー化粧品の発売後、新作の発表はしばらくありませんが、
1934年2月『オリーブポマード』の発売を皮切りに、同年12月に『カッピー頬紅』、
1935年2月には『カッピー口紅』『カッピー艶出し香油』の発売が続きます。
更に1935年8月には、田端氏が販路拡大のため朝鮮、中国、満州の視察を行っており、
当時の豊香園の勢いを感じられますね!
しかし、実際に大陸にまで進出したかどうかは不明です。
韓国語や中国語が表記された製品があれば、大陸進出の裏付けになると思いますが、
今のところ見た事無いんですよね〜

1936年8月、豊香園は東京ボーネット会を設立し、制度品システムを導入します。
これにより、小売店は豊香園と契約してボーネット会に入会すれば、
卸売り店を介さずに製品を直接仕入れる事ができるようになりました。
豊香園は他店に製品を卸さないので、契約小売店はカッピーを独占販売できます。
その結果、契約小売店は安定した顧客と売り上げを確保することができ、
他店との価格競争が必要無くなるので定価で販売することが可能になるんですね。
当時の業界は、小売店が安い価格で製品を売り捌く「乱売」に頭を悩ませていました。
豊香園も1935年6月の記事で、乱売によって被った不利益を訴えています。
そうした経緯もあって、制度品システムの導入を決意したのでしょう。
しかし、制度品システムは陳列棚や販促物などを企業側で用意しなければならず、
その負担は決して小さくありません。
制度品システムを導入できるということは、それなりに体力(=売り上げ)のある
企業であることの証でもあります。

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これがボーネット会設立当時の広告です。
ところで、冒頭の写真にも写っているバニシングクリームですが、
この広告のクリームのビンと、形が一致しているように感じます。
バニシングクリーム自体はカッピー発売当初からの製品ですが、
同じ形のビンの写真はこれ以外に見つかりませんでした。
もしかすると、私の持っているバニシングクリームは制度品仕様の物かもしれません。

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ビンも蓋も丸っこく、可愛いフォルムです。

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蓋にも底にもしっかりと「CAppi」のエンボスがあります。

1938年4月、香水『フランス麝香』が発売となります。
採算は取れないけど苦心の末に完成した最高の芸術品なので、発表しないのは忍びない。
よってあらゆるコストを軽減し、数量も限定することで販売に漕ぎ着けました……
というようなことを超長文で説明しています(笑)

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豪華にして絢爛たり、今こそ名付けてフランス麝香!!
感激の名香!!不朽の名香!!この気持ちを讃えて香りの女王!!

……この自画自賛で尊大な感じ、嫌いじゃないです(笑)
「香水は芸術である」がモットーの田端氏、香水に懸ける情熱を感じますね。
ポマード、頬紅などの新発売広告と比べると力の入り具合が何だか違います。

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私はフランス麝香を2つ持っていますが、残念ながらこの当時の物ではありません。
豊香園の住所表記などから、右は1959年以降、左は1948年以降の物と推測できます。
1938年当時の広告と見比べてみると、それほど大きな違いは無さそうです。
ラベルはフランス国旗を意識しているのかな?トリコロールカラーですね。

そうそう、カッピーの香水といえば、忘れてはならないのが『カッピー香水』。
国産カッピー化粧品発売時に、発売されているはずなのですが、存在感がかなり薄いです。
広告に載っているのは粉白粉や水白粉、クリームなどの写真ばかりで、
香水が目立って広告され始めるのは、発売から4年が経過した1936年頃からになります。

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これは1936年の広告です。ラベルの形が四角いですね。
「初夏の店頭の寵児!近代的趣味の上に立って高雅馥郁たる国産カッピー香水
 この品こそ香水界の最高位 香水通の憧憬の的 国産の誇り 断然外製品を圧倒」
外国製に対するライバル心がバシバシ伝わってくる文章です。

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こちらは1939年の広告。ラベルの形は楕円形です。
「不朽の名香カッピー香水は誰云うとなく香りの女王と称す
 今や本邦香水界の王座を築き 其名声海外に及ぶ 切に御店頭に御愛賣の程願上ます」
名声が海外に及んでるっていうのは、多分ウソです(笑)

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これは私が持っているカッピー香水。
ラベルは丸く、平たいビンに、黒いベークライト製のキャップが付いています。
エンボスはビンにも蓋にもありません。
ラベルの形が年代特定の手掛かりになるのでは?と期待したのですが、
どちらのラベルも年代に関係なく広告に登場するので、参考にはなりませんでした。
ただし、このデザインのカッピー香水は戦後の資料では確認されていないので、
少なくとも戦前の物であるということは間違い無さそうです。

豊香園の経営は順調で、1940年には牛込区市ヶ谷谷町51番地に新社屋と工場が完成しました。
(現在でいうと新宿区住吉町あたり?)
当時の記事によれば、典雅な社屋の裏側には最新の設備を備えた工場が数棟も立ち並び、
豊香園の更なる発展を思わせる、大層立派な規模のものだったそうです。
7月の広告には新社屋、工場の写真(イラスト?)も掲載されています。

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この広告の掲載以降、どうしたわけかカッピー化粧品の広告が激減します。
新社屋兼工場の建設費用、制度品システム導入のための費用など考えると、
広告費をそっちにまわしたのか!?なんて勝手な想像をしてしまいます(笑)
更に1941年以降から終戦までの資料は年鑑くらいしか公表されていないため、
この間の豊香園の動向については、ほとんど不明なのです。
1941年、1942年の年鑑では広告が確認できるのですが、1943年以降は確認できません。

再び豊香園の名前を確認できるのは、終戦後の商報の「本舗の現況」コーナーです。
それによれば豊香園は戦時中、浦和市に浦和工業所を設立し軍需指定を受けて
機械工業を経営していたとのこと。
おそらく広告の掲載がない1943年頃から機械工業を始めていたのではないでしょうか。
戦時中、贅沢品とされた化粧品への政府や軍の風当たりは強く、配給も少なかったため、
多くの化粧品会社は生き残りを賭けて、軍需産業に従事しました。
豊香園の浦和工業所の設立も、生き残るための選択であったのでしょう。
機械工業を始めてからも化粧品の製造を続けていたかどうかが気になるところですが、
牛込区の社屋兼工場は残念ながら空襲により焼けてしまったらしく(時期は不明)、
その後は機械工業のみを生業にしていたものと考えられます。

戦後は、戦禍を免れた浦和工業所でテックス(建築資材)の製造をしながら、
板橋区東大泉町366でクリーム、ポマード、香水など、化粧品の製造を再開します。
1947年には新工場を建設し、戦前にも取り扱いのあった粉白粉が復活しました。
しかし、戦中の社屋兼工場の焼失はやはり大きな痛手となったようで、
以前のような活気ある広告が見られるようになるのは1949年以降になってからです。
ちなみに、カッピーの前に必ず表記されていた「国産」の二文字が戦後には消滅します。
戦前は、香水だけでなく化粧品全般を製造していた豊香園ですが、
戦後は特に香水に注力し、1949年5月の記事では16種類もの香水が紹介されています。
1945年から1948年までにエメロード、カッピーオリガン、ベニスの夜、パリーの花、
ホワイトローズ、ヘリオトロープ、シプレー、ローズ、伽羅、クレマチスの10種を発売、
更に1949年5月までにフランス麝香、リラ、フローレンス、ローズプリンス、ウィステリア、
オノクレアの6種類を発売しています。
同年の9月には整髪料『液体ブリアンチン』の発売も確認できます。

1950年には、戦時中の工場焼失により事実上解散していたボーネット会が再結成され、
関西の契約小売店に製品を卸すための販売会社、浪花豊香園を神戸で設立するなど、
制度品システムの復活、再運営に向けた積極的な展開が見られるようになります。
同年7月には香水『パリの花』と、純正ハチ蜜を主材とした『ハチ蜜コロン』を発売。
同年9月には、戦前から存在する豊香園の別ブランド、レイナから『バニシングクリーム』と
『コールドクリーム』、そして『ハチ蜜入り栄養クリーム』が発売されます。
時期は分かりませんが、豊香園は戦前にも『純精蜂蜜クリーム』を販売していたので、
それのリバイバルと言えるかもしれません。
1951年3月には新装の『カッピー粉白粉』と、香水『ムゲット』『ガーデニヤ』が発売。
この香水2種の発売記事では、豊香園の香水は既に30余種類ある、と記述されています。
1949年には16種類だったものが、2年余りで倍に増えるとは驚きですね。
田端氏の回想によれば、この時期の経営が一番苦しかったらしく、
「経営は極度に行き詰まり、死に物狂いで孤軍奮闘していた」と語っています。

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そんな苦しい経営状態の中、起死回生のヒット作となる香水『黒水仙』が発売となります。
1951年4月の発売当時、サイズ違いで500円のものと300円のものがあったようです。

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左が500円、右が300円です。
左は住所が「豊玉」なので1959年以降、右は「東大泉」なので1959年以前と推測できます。
年代に多少の開きがありますが、デザインは全く同じですね。

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蓋にはとても小さく「CAppi」のエンボス!

当時は流行った映画やドラマの名称をそのまま香水に付けることが少なくなく、
この香水についても同年3月に公開したイギリス映画「黒水仙」から着想を得たようです。
映画の人気の後押しもあってか、カッピーの黒水仙は発売直後から評判を呼びました。
同年8月には富山、金沢、名古屋のデパートで開催の人気投票で第1位を獲得しています。
黒水仙の人気は一時に留まらず、定番香水として長く愛されることとなりました。
オークションや骨董市でも、黒水仙は比較的入手しやすい香水と言えますが、
人気商品のため流通量が多かったことがその要因の1つであると推測されます。
ちなみに、黒水仙といえば、この特徴的なボトルですが、
このボトルデザインが使用されたのは黒水仙が初めてではなく、
ひと月前に発売されている香水『ムゲット』『ガーデニヤ』で既に使用されています。

1951年9月には、『カッピー栄養クリーム』が発売。
1950年に発売された蜂蜜入り栄養クリームとは別物のようです。
当時は栄養クリームが流行していたので、特に力を入れていたのでしょうね。
同年11月には、田端氏の六男である哲郎氏(当時31歳)の結婚が記事になっています。
哲郎氏は、若くして豊香園の副社長を任され、その経営に関わってきた人物です。
この後も副社長として幾度か登場しますが、後に独立します。
同年12月には、『ヘヤーオイル黒水仙』、『ミルキークリーム』、『スキンクリーム』、
『コールドティッシュクリーム』が発売。(ティッシュクリームってなんなんだ…!)
ここで新たに3種類のクリームが発売され、豊香園のクリームは合計で5種類となります。

1952年2月には、香水『パンドラ』を発売。
この香水は黒水仙に次ぐヒット作となっています。
同年6月には高級香水『蘭奢香』を発売。この香水は3000円という高価格!
黒水仙が300円、500円という価格ですから、なかなかの高級品であることが分かります。
同年10月には『コールドティッシュクリーム』をリニューアル、
11月にも蜂蜜入り栄養クリームを『ハニークリーム』としてリニューアルしています。

1953年は、香水需要の高まりを受けて、高級香水を中心に新製品を展開。
3月には、高級香水『木犀』、『鈴蘭』、『ホワイトローズ』を発売しています。
そのほか、薫陸香、桃金嬢、ネーメ・ク・モア、黄水仙、麝香撫子、アモア、素馨を含めた
合計10種、高級路線の香水を「今年の香水」として売り出しています。
庶民の生活レベルが上がってきたことで、高級香水の売れ行きは順調だったようです。
7月の広告では「サンクロ」と称して黒水仙香水、黒水仙オリーブ香油、黒水仙ローション、
合計3つの製品の宣伝が見られ、黒水仙の人気が継続していることが伺えます。

1954年2月には、『紅孔雀』という名称の香水と香油を発売。
この頃、田端氏は九州へ出張中の船旅で、鳥瞰図絵師として著名な画家、
吉田初三郎氏と偶然、同じ船室になっています。
その時に田端氏から聞かされた香水に対する情熱に感銘を受けた吉田氏は、
徳富蘇峰氏を引き合いに出して激励、直筆の書『千寿萬香』を田端氏に贈っています。

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この広告の右上に載っているのが、吉田氏直筆の書のようです。

田端氏は吉田氏のこの激励にいたく感激して、
「日本から外国の香水を追放できるまで、命に代えても頑張るぞ!」
と決意を新たにしたそうです。
この時、田端氏は御年76歳!まだまだお元気ですね。

それから2ヶ月後の4月、「黒水仙問題」が3年の月日を経て解決に至ります。
「黒水仙問題」とは、黒水仙の商標権を巡る一連の騒動です。
黒水仙の名称はヘリオトロープ、シプレー等と同様に固有名称ではなく
一般名称と考えられていた関係上、商標として出願するメーカーはありませんでした。
その後、登録可能と考えた横田氏(詳細不明)が1951年6月に商標を出願します。
これよりやや遅れて、豊香園が商標を出願しますが、先願制度を尊重する特許庁は、
1952年7月に横田氏出願の黒水仙を公告制度にならって公告しました。
公告制度とは特許庁の審査官が権利化を認めた出願について、公報によって公衆に知らせ、
特許異議申立を待つというものです。
当時は豊香園の他にも「黒水仙」の名称を使用している化粧品が多々ありましたから、
公告に気付いた化粧品会社の人々が緊急集会を開きます。
話し合いでは、今後も一般名称として取り扱うべきだという意見もあったようですが、
その旨を特許庁に申し立てるにはもう時間がないということ、
また集会を開いた時点で既に田端氏から異議申し立てが行われていたことから、
名称使用を同業他社にも認めることを前提に、対応の一切が田端氏に一任されます。
これを受けて田端氏は商標権獲得のために奔走しますが、
「横田氏出願前3ヶ月位の時日にては著名ならず」として審査官に申し立てを却下されました。
これにより、商標権獲得が決定的となった横田氏は「黒水仙商標につき警告」
という広告を某業界紙に掲載、名称を使用している化粧品会社の人々は衝撃を受けます。
そして1954年2月、横田氏の出願登録が確定されました。
業界のため後に引けない田端氏は、確定とともに無効審判申請を行います。
一方、この案件の円満解決を望むルリガン本舗社長の杉山氏は、横田氏と同じ人物を
顧問弁護士としているコゼット本舗社長の中原氏と、共同で解決への糸口を模索します。
最終的には、2人から協力を依頼された東京化粧品工業会の馬場専務理事が横田氏から
商標権を買い取ることで話しがまとまりました。
工業会は「黒水仙委員会」を設置、会員に黒水仙の使用を許可することとなります。

3月に商標権譲渡の契約が成立、4月に譲渡完了ですから、2月に商標権を獲得した横田氏が、
それを保持していたのは、約2か月足らずということになります。
そもそも横田氏にとって本当に必要な商標登録だったのかどうか、疑わしいところです。
お金で解決してしまった点から考えても、いわゆる「商標ビジネス」だったのではないか?
という疑いが晴れません!この辺りは私個人の勝手な憶測です。

委員会には豊香園を筆頭に、ヒメ椿、ラモナー、サフラン、月の友、月美人、ミベヤ、
アルマン、バレー、コーセー、三越、ルーブ、ルリガン、コゼットなどが名を連ねました。
委員長には田端氏が就任、この後10年以上にわたり商標管理に努めることとなります。

『黒水仙』という名称を巡って、田端氏もかなり苦労したのですね。
ここで上手くいっていなければ、一番の売れ筋香水を失ってしまうところでした。
化粧品、特に香水はイメージを売る製品ですから、名称変更となれば、
大きな痛手になっていただろうと思います。

さて、ここで前編は終了です。
なるべく短く分かりやすくまとめたつもりですが、いかがだったでしょうか?
っていうかここまで読んでくれた人がどれくらいいるのかどうか(笑)

とりあえず、まだまだ先は長いです。
後編へ続く!

十銭ストアの化粧品 - 2017.05.07 Sun



左は門根幸榮堂の香泉化粧水、右は山田屋香粧品製造所のヤマダ艶出し香油です。
最近は1つの製品を調べた記事が多かったですが、今回は少し視点を変えて、
十銭ストアで売られていた化粧品を取り上げます!

「十銭ストアってなに?」という方々の為に簡単に説明すると、
今で言う「100均」や「300均」のような、均一価格で品物を売るお店です。
戦前にそんなお店があったとは!びっくりですね〜
香泉化粧水とヤマダ艶出し香油については、長らく詳細不明だったのですが、
商報の広告から、この2つの製品が十銭ストアの製品であることに気付きました。
調べてみると色々と面白かったので、興味のある方は是非お付き合いください。

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香泉化粧水を見てみましょう!
全長は約11cm、三分の一ほど残った化粧水は鮮やかな水色をしています。
ビンの多面的なカットがお洒落ですね!
ラベルにはマル停マークがありますので、1939年10月以降のものでしょうか?
前面のラベルにわざわざ大きく判を押すのは珍しいですね。

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背面を見てみましょう。
この化粧水の説明書きがあります。
油性の方に特によろしう…とあるので、サッパリした使用感だったのでしょうね!
住所は東京市浅草區ですから、1943年以前の物なのは間違いなさそうです。

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蓋はエンジ色です。
こうしたカットを施した蓋のデザインはこの時代多く見られますね。
例を挙げれば、美顔水も同じような蓋のデザインです。

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こちらはヤマダ艶出し香油です。
全長はコルクを含めて約9cm、ビンはスタンダードなデザインです。
ラベル左下にある椿のマークは、資生堂の花椿に激似(笑)

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背面を見てみます。
ラベルには欠けがありますが、「束髪用香油」と書いてあったのでしょうね。

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ビン側面のラベルには「山田屋香粧品製造所」とあります。
香泉化粧水と同様に、住所は東京市ですね。
責任者のお名前がよく見えませんが、「町野久一」さんかな?
写真下はビン背面にあるエンボスをアップで撮ったものです。
「YAMADA」だから略して「YMD」なのでしょうね。


十銭ストアは1926年、高島屋が大阪に出した店が始まりであると言われています。
当時、アメリカに存在した「10セントストア」を参考にしたお店だったそうです。
店内全ての品物が十銭で買えるという物珍しさと、当時の世界的不況の影響もあって、
十銭ストアは民衆に歓迎されました。
1931年から本格的なチェーン展開が始まり、最盛期には100店舗以上に規模が拡大。
髙島屋の成功を受けて10銭ストアを模倣するデパートや商店も続出しましたから、
それも含めると相当な数の均一ストアが存在したことになります。
しかし米国との戦争が始まると品物の調達難などから均一ストアの運営が難しくなり、
戦争が終わる頃には、そのほとんどが姿を消していたそうです。
十銭(現代の約180円に相当)で果たしてどんな品物を売ることができたのか?
というのが気になるところですが、菓子類や缶詰などの食料品をはじめ、
ハンカチや歯ブラシなどの生活必需品、日用品がほとんどだったようです。
そして、その日用品の中には化粧品も含まれていました。

当時の「均一ストア旋風」が化粧品業界にも影響していたのは明らかです。
1932年の商報には、均一ストア用に製造された化粧品が盛んに宣伝されています。
ここで幾つか広告をご紹介します。

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「時代に投ずる!! 見よこの大奉仕!! 十銭均一爆破!! 九銭均一の先陣!!」

見よ、この広告の威勢の良さ!
「十銭均一爆破!!」って……十銭均一に恨みでもあるのでしょうか(笑)
均一ストアは十銭だけでなく二十銭、五十銭など金額の設定にも種類がありました。
九銭ストアというのもあったようです。

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品物リストを見てみると、ハンカチ、櫛、乳バンド(!)などの日用品のほか、
ヘチマ水、水白粉、クリームなど化粧品類も豊富に取り揃えていることが分かります。
仕入れ値を見ると、化粧品類は10個で六十五銭というのがほとんどですね!
ヘチマ水は10本で四十八銭と、かなりお安い!

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こちらは山田屋香粧品製造所の広告です。
山田屋は十銭均一向けの化粧品を主に製造していたようですね!
少し分かりにくいですが、今回取り上げている艶出し香油の姿も発見しました。
どれも十銭とは思えないお洒落なビンです。

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こちらも山田屋香粧品製造所の広告です。
「遂に化粧品界にも十銭均一時代が来た!!」と威勢よく宣言しています。

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こちらは門根幸榮堂の広告です。
山田屋と同様に、十銭均一用の化粧品を多数取り揃えていることが分かります。
残念ながら、今回取り上げた香泉化粧水はこの広告で確認することはできません。

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こちらも門根幸榮堂の広告です。
この広告は先程のものと違って、文字情報を多く載せています。
「キット賣れる キット儲かる 十銭化粧品」……少し控えめな宣伝文句ですね(笑)
「弊店は化粧品製造に古き歴史を有し」とあるので、以前から各化粧品会社に
化粧品を卸していた老舗だったと考えられます。
製品一覧には、今回取り上げている香泉化粧水も確認できますね。

均一ストア用製品の宣伝広告は1932年以降の商報でも見ることができるので、
一時のブームではなくジャンルの1つとして業界に受け入れられていたのでしょう。
断言はできませんが、名称に「ヤマダ」や「香泉」という言葉が含まれる場合は、
十銭ストア用の化粧品である可能性を考えてみても良いかもしれません!

ポーラ化成工業株式会社 ダルジャン - 2017.03.20 Mon



化粧品にしては硬派なデザインの瓶ですが、
然り気無い個性があります!
ポーラ化粧品のダルジャンです。

ポーラの製品を取り上げるのは、これが初めてです。
戦前から続く老舗ではありますが、昔の瓶がなかなか手に入りにくいのと、
商報など調べても他メーカーと比べ広告量が圧倒的に少ない(=情報が少ない)ため、
なんとなく後回しにしてきてしまいました。
しかし、今回はダルジャンがまとめて手に入ったので重い腰をあげます!

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全長はベークライトのスクリューキャップを含めて約8cmあります。
ぽってりとした質感の陶製ビンです。

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ビンは表面も背面も同じデザインで、ラベルが有る無しだけの違いのようです。

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でっぱりを含めないとビンの厚みは約2.2cmです。

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ダルジャンの箱です。
以前の持ち主の仕業でしょうか?テカテカのセロハンテープで補強されています。
箱側面には「ポーラ ダルヂャン」という商品名と「光る化粧」という謎の言葉が!
この「光る化粧」という言葉の意味は後々判明することになります。
箱裏面には英語で商品の説明があり、意訳すると
「ダルジャンはあなたに、簡単でモダンな化粧法をご提案します。
 あなたの肌に合った色の粉白粉とご一緒にお使いください」
という意味になります(多分)。
更に箱の内蓋にも使用方法が書いてあります。
「ポーラダルヂャンをお顔へシットリ伸します、其上へ直ぐ粉白粉をどうぞーー
 勿論お肌の色に合ったものを。
 そして数分間静かに音楽でも聞きながらお肌を休めて下さいーー
 光る化粧、生きたお化粧の為に」
音楽でも聞きながら……なんだかポエムみたいな文章です!

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箱の底には会社名と住所だけでなく容量と価格も記載されています。
ポーラがポーラ化成工業株式会社になったのは1943年ですから
それ以降に作られた物と思われます。
どうして医薬品扱いなのかは、よく分かりません。
ポーラが軟膏の製造所として軍需工場の指定を受けていたからでしょうか。
10円という価格が高いのか安いのかですが、1943年頃の貨幣価値を現代に
換算すると1円=約2500円らしいので、10円=約25000円ということに!
これはちょっと高過ぎますね!
1946年頃だとすると1円=約400円なので、10円=約4000円になります。

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箱付きの他に、ビンだけのダルジャンも2つあります。
全て陶製です。

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左端のダルジャンはちょっと小さめですね。

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三つとも蓋はベークライトなのですが、デザインがバラバラです。
厳しい容器事情の為にデザインを統一する余裕は無かったということでしょうか。
こんなにデザインが違うのにどれもサイズ感はピッタリというのが面白いです。

ここからはポーラについて少し説明します。

創業者の鈴木努氏は静岡県生まれ。
なかなか商魂逞しい人物だったようで、大和ゴムや日本紅茶での勤務を経て、
春雨の輸入販売やラシャ紙の製造など、様々な事業に手を出していたようです。
しかしどれも上手くいかず、最終的に名古屋で創業した晒綿事業は
世界恐慌の煽りを受けて、生活は一向に良くなりません。
世間の情勢に左右されない事業を考えていた彼は、
「女性はどんな状況にあっても美しくありたいのでは?」ということに思い至ります。
化粧品事業を決意した彼が、妻の美千代さんに言い放ったとされる言葉がこれです。

「日本中の女を俺になびかせてみせるぞ!」

……自分がもし奥さんだったとしたら、
「はぁ~?アンタ何馬鹿なこと言ってんの!」と全力で突っ込む自信があります(笑)
でも、実際なびかせてみせたのですから、大したものです。
彼は早速、晒綿事業の傍ら化粧品製造についてのノウハウを学びました。
そして1929年9月、初めての製品であるクリームを完成させます。
美千代さんが行商に行き、一箱2〜3円のクリームを少しずつ売り歩きました。
2〜3円というと当時としては高価でしたが、高くても良い物は売れるはず……
というのが鈴木氏の信条だったようです。
1931年、化粧品事業に手応えを得た鈴木氏は家族を連れて故郷である静岡県に帰り、
「南光化学研究所 ポーラ化粧品」を創業しました。
ポーラの由来は諸説ありますが、鈴木氏は「声に出して感じの良い言葉を選んだ」と
後年に語っています。

さて、めでたく創業した鈴木氏ですが、最初のうちはやはり苦労したようです。
資金不足で広告を出せないため知名度は上がらず、知名度の無い製品を置いてくれる
小売店も無いため、訪問販売という販売手法をとることになります。
しかし当時、化粧品の訪問販売は珍しく、客は警戒心のため購入に至りません。
そこでセールスマン達は、客の警戒心を取り除くため数々の工夫をしました。
一箱売りではなく量り売りを基本にして少量を気軽に試せるようにしたり、
化粧品を売る以外のサービス(化粧のレッスンなど)を無償で提供したり……
その工夫のかいもあって、ポーラ化粧品は少しずつ一般に受け入れられていきます。

そして1938年、満を持して誕生したのが、ダルジャンです。
当時の乳液は脂肪分が高いせいでベタベタした使用感のものが多かったらしく、
ダルジャンは開発の際に使用感の良い乳液を作ることを目的とされました。
それからもう1つの大きな目的は、「金属的な色調」の物を作るということです。
ダルジャン(仏語で銀という意味)という名称の由来はここにあります。
「金属的な色調」が一体どういうものなのかは、文章から想像するしかありません。
社史では「名古屋時代に見た黒川の、夏の日差しを照り返すさざなみの乱反射の再現」
「乳液の中のキラキラ光る粒子」とだけ表現されています。
これだけ読むと、半端なくギラギラ輝くような乳液が想像されますが(笑)
実際は現代にもあるような、パール感のある化粧品だったのではないでしょうか。
また、乳液とありますが、ダルジャンの箱に書いてある使用方法を読む限りでは、
化粧の際に肌にツヤ感を与えるための化粧下地のような物だったことが想像できます。
それなら、箱に書いてあった「光る化粧」という言葉にも納得です!
開発には苦労したようで、液体の粘度とキラキラした質感を安定、維持するために
相当な労力を費やしたそうです。
そうして誕生したダルジャンは、社内でも大きな歓迎を持って迎えられるとともに、
客からの評判も上々、一躍主力商品の仲間入りを果たしました。
ちなみに、この当時のダルジャンの容器は、陶製の物とデザインは変わらないものの
ガラス製であったことがポーラのHPの写真で分かります。
写真が小さいので分かりませんがラベルのデザインにも違いがありそう?

順調に成長を続けるポーラですが時代の流れには逆らえず、
他の化粧品会社と同様に戦時色が濃くなるにつれて世間の風当たりが強くなります。
特に「ポーラ」は敵性語と勘違いされることが多く、販売には苦労したそうです。
1941年の時点で、製造販売の認可が得られたのはダルジャンを含めた8品目のみ。
会社を存続させる為に軟膏素材の製造を成功させ1943年には海軍の指定工場となり、
社名を「ポーラ化成工業株式会社」としました。
軍需工場となることで苦しい状況を打破したかに見えましたが、
1944年からの米軍による度重なる空襲で、ポーラは本社と工場を失ってしまいます。
失意の中、8月の終戦を迎えた鈴木氏と社員達はポーラの再建に奔走し、
1946年の6月に「ポーラ商事株式会社」として化粧品の製造販売を再開しました。
(このあたりの社名の変遷については、正直よく分かりません。wikiによれば、
ポーラ商事株式会社はあくまで販売部門の独立であって、ポーラ化成工業株式会社は
その後も存在しているようですが……)
この時、製造が再開された化粧品にはダルジャンも含まれています。
当時の化粧品容器の事情について、社史ではこうした説明がなされています。

「ガラス容器を注文しようにも製瓶会社はまだ生産を始められる状態ではなかった。
 仕方なく、焼け残った陶製の容器にクリームを詰めたりして製品にした。
 陶製の容器は、製法も原始的だったから不揃いでみてくれの悪いものであったし、
 内容物がもれるなどの問題点があったが、これに代わる容器はなかった。」

代用品は陶製の容器であったことがはっきりと書かれています。
また、「焼け残った陶製の容器」という記述から、陶製の容器は戦後だけではなく、
戦時中から使用されていたと推測できます。
私の持つ陶製のダルジャンが戦時中に作られた物なのか、1946年以降の物なのかは
ハッキリとは分かりません。

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ちなみに、ダルジャンの「キラキラ」がどんなものだったのか気になったので、
中身を確認してみましたが、既に約70年経っていると思われる中身は
劣化のためペースト状になり、キラキラも確認できませんでした、残念!

最後に少しオマケ。
1954年1月の日本粧業にポーラの特集記事がありましたので載せておきます。
創業から25年経っているにも関わらず、業界誌にこうした特集記事が載るとは!
ポーラが業界にとってどれだけ特殊な存在であったかが分かります。
ちょっと面白かったので一部だけ載せておきますね。
記事内容の気になる方は日本粧業会HPの資料館にて御覧になってみてください。

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リバストン化学 香水ビン色々 - 2017.03.12 Sun

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並べて楽しい、眺めて楽しい!
リバストン化学の香水ビン色々です。

昔に取り上げた事のあるリバストン化学の香水ビンですが(前回記事はこちら→
あれからレパートリーが増えたことに加え、今回はリバストン化学の石川惠一さんに
少しだけお話を伺うことができましたので、記事にしてまとめることにしました。
私の不躾なお願いにも快く応じて下さった石川さんには、改めて御礼申し上げます。

さて、王冠型の香水ビンといえば?
欧米では「プリンス・マチャベリ」ですが、日本では「リバストン化学」でしょう。
(私が勝手に決めました)
カラフルで楽しい形の多いミニ香水は後々ご紹介するとして、
まずは知っている方も多いと思われる王冠型の香水ビンをご紹介したいと思います。

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透明なガラスに金彩の施されたデザイン!ガラスも厚くて高級感があり、とても綺麗です。
この王冠型の香水ビンは見掛けることは多いものの、基本的に栓が無いんですよね。
「元々栓の無い香水ビンだったのでは?」なんて思ってしまうくらいでしたが、
この度は目出度く、栓のあるビンを手にすることができました。

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ガラス栓は小さいですが、丁寧な十字の飾りが施されています。
全長は約2.3cmです。
小さく軽いので、ポロッと抜けてしまっても気付かないかもしれません。
栓が無いビンが多いのはそのせいでしょうか!?

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底を見てみましょう。
エンボスは無く、ツルッとしています。

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ちなみに、栓が無いビンはなんと3つにまで増えてしまいました。
見つけるとついつい連れ帰ってしまう魅力があります。

リバストン化学の石川さんによると、これは約70年前に作られた物だそうです。
70年前というと、戦後しばらくの頃でしょうか。
石川さんは二代目で、これは先代の時代の物の為、詳細は不明とのことでした。
現在でも石川さんと交流のある当時のガラス瓶製造業者の方によれば、
このビンについて経緯は覚えていないものの、作ったことは確かだそうです。

ところで、この香水ビンは海外製と勘違いされてしまうことが多いビンです。
特に前述したプリンス・マチャベリと勘違いされる事が多いようなので、
需要があるか分かりませんが、見分ける際のポイントを適当にまとめてみました!

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左がリバストン香水、右がプリンス・マチャベリです。 ※画像は海外サイトより引用

着彩の有無/リバストンには金彩部分に鋲のような丸い装飾があり、ペイントが施されています。
      マチャベリにも同じように装飾がありますが、ペイントはありません。

十字の有無/リバストンはキャップだけでなく、本体部分にも十字の飾りがあります。
      マチャベリにはキャップ以外の場所に十字はありません。

ガラスの色/リバストンは透明と赤のみです。
      マチャベリは透明と赤に加え、グリーンやブルーなどのバリエーションがあります。
        
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続いては、何とも可愛いミニ香水ビン!
カラフルで、形も面白いものばかりです。
全長はスクリューキャップも含めて3.5〜4.5cmほど。
キャップには十字の飾りの付いたものと、クローバー型の飾りの付いたものがあります。
クローバー型のキャップにはチェーンが付いていた?と思われるリングが残されています。
おそらくキーホルダーとして販売されていたのではないでしょうか。

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私の持っている物を並べてみました。
違いがペイントの有無だけの物は省いています。

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ペイントの有無とは、こういう事です。
左は手塗りと思われるペイントが施されたもの、右はエンボスのみです。
ちょっと分かりにくいかも?
石川さんから頂いたリストによれば、ペイントの有無も含めて40種類あるようです。
全部集めるのは大変そうですね!

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このシリーズには基本的にラベルは付いておりませんが、底にはラベルがあります。
「輸入原料 リバストン香水 東京墨田 菊川1−6−5 リバストン化学 石川○一」
○部分は潰れて読めませんが、惠一さんのお名前でしょうか?
それとも先代のお名前?

この香水ビンについても、石川さんが当時のガラス瓶製造業者の方にお伺いしたところ、
「ハリスに依頼されて作ったもの」とのことでした。
ハリスとは、カネボウハリス株式会社のことと思われます。

その前身であるハリス株式会社は、チューインガムで有名な菓子メーカーの大手でした。
鐘紡百年史によると、戦後は本業の繊維産業に比べ相場変動の少ない化粧品、薬品、
食品分野への事業拡大を決定、ハリスの合併はその足掛かりとなったとあります。
合併以前からハリスにはチョコレートやガムの原料を供給、不況の際には資金援助を行い、
建て直しの為の人的資材も投入するなど、経営には深く関わっていたようです。
カネボウのこうしたバックアップもあって、ハリスは西日本市場を制圧し、
ロッテに並ぶ菓子メーカーと評されるまでに成長します。
更なる成長を目指してロッテの本拠地である東日本市場へ本格的な攻勢を掛けますが、
危機感を持ったロッテは大掛かりなキャンペーンを敢行、巧みな経営戦略によりハリスを
退けてしまいました。この頃から経営方針に対する見解の相違によりハリス経営陣は対立。
一部経営陣が独断でポップコーン事業に手を出して失敗するなど混乱が続きます。
この混乱を収束するため、ハリスの重役がカネボウに経営譲渡の相談を持ちかけます。
そして1964年4月、正式にカネボウに合併され、カネボウハリス株式会社が誕生しました。

「カネボウハリスガム」で画像検索すると当時のガムの広告を見ることができます。
その多くが景品付きで、景品はトランシーバーだったり、テープレコーダーだったり、
ハンカチだったり……と多種多様です。
前置きが長くなってしまいましたが、この景品の1つに「プチ香水」がありました。
つまり、リバストン化学で使用されていた香水ビンは、この景品と同一の物なのです!
1965年当時の広告を、とことこコロンさんがお持ちでしたので、画像を拝借いたしました。

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どうでしょうか?ラベルの有無やペイント、キャップの形に多少の差異があるものの、
同じ香水ビンであると考えてほぼ間違いないと思います。

リバストン化学とカネボウが、こうした形で繋がっていたという事は驚きでした!
記事の初めに紹介した王冠型の香水ビンも、カネボウの為に作られたものではないか?
という説がありますが、その可能性が高いような気がしてきました。
ちなみに、デザインはガラス瓶製造業者の方によるものだそうです。
石川さんから頂いた香水ビンのリストには広告に載っていないデザインもあり、
ハリスガムにビンを提供後もデザインを増やし続けたのでは?と推察できます。

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プロフィール

黒猫チャック

Author:黒猫チャック
香水瓶収集からはじまり、日本の化粧品デザインに辿り着きました。特にビンが大好き!ラベルが残ってたら最高です。
インスタグラム始めました。
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